青年の思索のために(せいねんのしさくのために)

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 人生は不断の出発であります。生れた時が出発であるばかりでなく、それからの刻一刻が新しい出発であります。眠る時間はそうでもなかろうという人があるかも知れませんが、それも明日を用意しつつあるという意味で、まぎれもなく出発であります。健康な眠りは健康な明日への出発を意味し、不健康な眠りは不健康な明日への出発を意味するのであります。
 こうして出発は死の間際までつづきます。たえ間なくつづきます。
 では、出発は死と共に終るかというと、決してそうではありません。人間にとっては、死もまた一つの出発であります。いや、人によっては、死こそ、その人にとって最も偉大な出発であるとさえいえるのであります。たとえば、ソクラテスが毒盃を仰いでたおれた瞬間のごとき、またキリストが十字架上で息をひきとった瞬間のごとき、世にも荘厳な、たとえようもないほど飛躍的な出発であり、永遠の生命への突入であったのであります。


 出発には小出発と大出発とがあります。小出発というのは、一生を通じての一歩一歩、大出発というのは、一生に何度かある生命の飛躍、もしくは大転機であります。
 大出発の時期と度数とは、人によって必ずしも一様ではありません。しかし、すべての人は、少くとも三度の大出発の時期を持っていると見なければなりません。その第一は出生の時であり、その第二は青年期であり、そしてその第三は死の間際であります。
 出生は、いうまでもなく、すべての出発のはじまりで、考えようでは、これほどの大出発はありますまい。しかし、この時の出発には自覚がありません。自分で出発するというよりも、むしろ他の力によって出発させられるのでありまして、これこそ全くの運であります。従って、どちらを向いて出発しようと、出発者自身には全然責任がありません。責任をとろうとしても取り得ないのであります。で、このことについては、ここでとやかくいう必要もありますまい。もし何かいうことがあるとすれば、それは、よかれあしかれその運をすなおに受けとって、その後の一歩一歩の小出発で、それをよりよく生かす工夫をしなければならない、ということだけであります。
 第三の大出発、すなわち死の間際がいかに大切なものであるかは、すでに述べたとおりでありますが、しかし、それもここでは重要な問題ではありません。というのは、死の間際の大出発はその時になってどんなにあせっても、意のままになるものではなく、実は生れてから死ぬまでの間の一歩一歩の小出発の集積によって、すでにその方向も飛躍力も決定されており、そして死んだあとでは、もう絶対に動かせないものだからであります。
 われわれにとって大切なのは、何といっても、生と死との中間にある大出発、すなわち青年期における大出発でなければなりません。青年期は、出生当時の無自覚から十分に覚めきって、己を知り、他を知り、社会を知り、そして死ぬまでの自分の方向を自分できめなければならない時期であります。むろん自分自身で一切の責任を負わなければならないし、また、自分がその気になりさえすれば、どうにでも方向を向けかえることが出来ます。そして、生まれた時の大出発と死ぬ時の大出発とを、有意義にするのも無意義にするのも、たいていはこの青年期の大出発の如何によって定まるものであります。その点からいって、青年期の大出発こそ、人間一生の中軸をなすもので、出発の中の出発であるといわなければなりません。
 しかし、ここに忘れてならないのは、刻刻の小出発をはなれて別に大出発があるのではない、ということであります。大出発は小出発の集積以外の何ものでもありません。小出発の一歩一歩が大出発を準備し、方向づけ、そしてその速力を決定するのであります。とりわけ青年期の一歩一歩は、それが大出発の一歩一歩であるだけに大切であり、反対にいうと、一歩一歩の影響力が大であればこそ、青年期は大出発の時期だということになるのであります。


 さて、出発は、その大小にかかわらず、それが真の意味での出発であるためには、三つの条件をそなえなければなりません。その第一は心境の開拓であり、その第二は頭脳の錬磨であり、その第三は環境への働きかけ、すなわち実践であります。この三者がくつわをならべて前進するのが真の意味での出発であり、そのうちの一つを欠いても、それは完全であるとはいえません。
 心境の開拓は愛に基調を求めなければなりません。愛の純化と深化と拡大化をほかにしては、心境の進歩は考えられないのであります。たとえば、忍耐、謙譲、調和、勇気というような美徳も、それが美徳であるのは、その根底に愛の心が流れているからでありまして、もしそうでなければ、忍耐は怨恨の源になり、謙譲や調和は卑屈や妥協の別名にすぎず、勇気は粗暴とえらぶところのない悪徳であるかも知れないのであります。あらゆる美徳は、それが真に美徳たるためには、必ず愛を基調としたものでなければなりません。それはちょうど、千手観音の千の手が、慈悲の一念によって動いているのと同じでなければならないのであります。