猫八(ねこはち)


「おい、大将」と呼びかけられて、猫八ねこはちは今まで熱心に読みふけってた講談倶楽部こうだんクラブから目をその方に転じた。その声ですぐその人だとは分ってたので、心易こころやすい気になって、
「いよう、先生!」わざととぼけた顔つきをしてみせながら、「よくこの電車でお目にかかるじゃアございませんか――さては、何かいい巣でもこッちの方にできました、な?」
「なアに、巣鴨の巣、さ!」
「………」それには彼もさっそく一本まいった。が、この時あたりの乗客どもがすべて聴き耳を立ててきたので、彼は今手が明いて引き上げてきた高座こうざのうえの気分をまた自分の心に引きだしていた。そして乗客どもが皆自分のお客のように見えてきたので、ここはやッぱり何とかやり返してやらねばならぬような気になった。「そうでげしょう、な」と、にわかにもっともらしい顔になって、ちょうどこの時顛狂てんきょう病院の前を自分らの電車が通ってるのをじろりと見て取って材料に入れた、
「巣鴨なんかにゃア、どうせ気違いか猫八のような化け物しか住んでおりませんから、な」
「は、は、はア」と笑った物があるので、彼はこんな場所ででもいつもの手応てごたえを得るには得たが、場所柄を思ってそのうえの軽口かるくちをさしひかえようとすると、何だかこの口が承知してくれないようにも思えた。
「まア、おとなしくしていなよ」ひそかに自分で自分を制しながら、相手の顔を見ていた。この人は高見といって、一二度あるもよおしに自分を招いてくれた人で、人のよさそうな黙笑をその少し酔いの出た、そして睡そうなあの顔に続けている。「おい、小奈良こなら小大仏こだいぶつ」とのどまで出たが、朋輩ほうばいの者でもない人にと思って、ぐッと呑みこんでしまった。それから、さしさわりのないと思えた言葉がべらべらと飛びだした。「もう、一杯すみました、な――この不景気に先生はなかなか景気がよさそうじゃアございませんか? 少しあやかりてい、な、――えい? わたくしなぞはこれから自宅うちけえって、やッと――その、な――熱いのにありつけるかと思ってますのでげすが、な、かかアがその用意をしてあるかどうかも分りません」
「は、は、はア!」筋向すじむこうに座を占めてこちらを見詰めていた男がまた笑った。
 人の笑いさえ聞えれば、自分には気持ちよく響くのであるが、自分自身には少しもおもしろくないのが不思議であった。芸人としての理窟りくつを言えば、それはたくさんあることはある。人を笑わせるには自分から笑っていては利き目がないということもその一つだ。けれども、自分は人の好む酒をもさし控えて、この商売に使う自分の声を保護ほごしているくせに、人に向ってはやッぱり酒を呑むかのごとく見せかけなければならぬ。こんな苦しいことが他の仕事にもあろうか? 人は芸人なんてしゃアしゃアして、世に苦労もないように思ってるが、その本人にもなってみるがいい。人の知らない苦労をこてこてとしている。自分なんかはまるで苦労の固まりでもってできたような人間である。
 それでも、一つ楽みなことには、自分の長屋住いのうら垣根をぶん抜いて、そこから出たところの明き地を前々から安く借りて、野菜を作っている。そして多くできた時は、自分の家族がそれを喰うばかりでなく、隣り近所のものにも分配してやる。近所のものが喜ぶのを見るだけでもまた一つの楽みである。
 小かぶや大根の葉につく青虫や黒虫は、畝並うねなみにみぞを掘っておいて、そこへ向って葉を振うと、皆ころころと落ちてしまう。それを一どきに踏みつけたり、子供なぞ棒の先で突ッついたりして、殺すのである。
 昨今は胡瓜きゅうり茄子なすの苗をも植えつけたので、根切り虫に注意してやらねばならぬ。この虫は泥棒や自分たちと同様、夜業ばかりする奴だから、昼間探しても少しだッて姿を見せぬ。今夜はひとつ、晩飯をすませるとすぐ、自分はふんどし一つになり、子供に提灯ちょうちんを持たせて畑に行き、十分に根切り虫の退治をやってやろうと考えられた。
 すると、この時、小大仏こだいぶつの先生が目を見ひらいて、
「今夜は、もう、用がなかろう」と尋ねた。
「へい、高座は二個所すましてまいりましたが――」これでは自分の返事が足りないようにも思えたので、彼は向うの意味をみ取って、「どこかうまいところへおともできますか、な?」
「なアに、どうせうちへ帰って寝るだけのことなら、どうだ、おれについてこないか?」
「まいりましょう――あなたのお指図さしずなら、どこへでも」どこ、華厳けごんの滝までもという歌を――思わず――口もとまで思い浮べた。
「ある文士たちの研究会だが、ね、聞いていてためにならないことでもない。これから行けば、もう、たッた二時間の辛抱しんぼうだ。そのあとはお前の世界にしてやるから」