明治演劇年表(めいじえんげきねんぴょう)

明治時代の劇を研究する人々の参考にもなろうかと思って、左の演劇年表を作ってみた。勿論完全な物ではないが、先ずこのくらいの事は知っていても好かろうという程度で編集したのである。但しその年表が東京だけにとどまって、関西方面まで手が廻らないのは、編者が関西劇界の事情をよくそらんじていないがためである。
明治の初年は、江戸から東京へ移った過渡時代で、編入すべき事項も頗る多いが、ここにはその大体を記すにとどめて置く。あまり繁瑣にわたることを避けたためである。
(岡本綺堂)
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○天下の形勢不穏のため、猿若町の三座とも正月興行を休み、二月に至りて漸く開場。
○五月十五日、市村座と守田座の開演中に、上野彰義隊の戦闘あり。その後も市中おだやかならず、劇界不振をきわむ。
○八月、市村家橘かきつ改名して五代目尾上菊五郎となる。時に二十五歳。
○九月二十三日の夜、河原崎権之助、今戸の宅にて浪士の強盗に斬殺せらる。養子権十郎は幸いに免かる。

○三月、河原崎権十郎、養父のあとを襲いで七代目河原崎権之助と改め、市村座において「勧進帳」の弁慶を勤む。
○八月、市村座において「桃山譚ももやまものがたり」を初演。権之助の地震加藤、大好評。
○劇場は依然として不振の状態をつづけ、各座いずれも経営に苦しむ。

○三月、守田座において市川左団次の丸橋忠弥初演、大好評。
○四月、三代目沢村田之助、再び脱疽だっそのために残る片足を切断す。
○六月、市村座六月興行の入場料は、桟敷代八十五匁、高土間八十匁、平土間七十五匁。
 参考のために市村座の入場料を掲げたるが、他も大同小異と知るべし。これは桟敷または土間一間ひとまの価にて、その当時の一間は七人詰なり。江戸時代には桟敷三十五匁、土間二十五匁が普通にて、それに比較すれば明治以後は大いに騰貴したる次第なるが、一匁は一銭六厘五毛なれば、平土間七十五匁は一円二十三銭七厘五毛、それを七人に割付けるときは、一人前は十七銭六厘余に相当す。
○十二月十八日、三代目関三十郎死す、六十六歳。

○一月、中村翫雀大阪より上京し、守田座における御目見得狂言の三浦之助、好評。
○七月、守田座にて「亀山の仇討」を開演中、石井兵助を勤むる嵐璃鶴が召捕られて、後に懲役三カ年を申渡さる。小林金平の妾おきぬが璃鶴と私通し、遂に金平を毒殺するに至りしより、おきぬは死罪、璃鶴は連坐の刑に問われしなり。
○十月二十二日、六代目市川団蔵、大阪に死す、七十二歳。彼は前名を九蔵といい、天保十一年河原崎座において「勧進帳」初演の当時、富樫左衛門を勤めたり。
○十月、仏人スリエ、九段招魂社にて曲馬を興行す。

○二月、守田座の座主守田勘弥、猿若町より京橋区新富町六丁目へ転座を出願し、四月に至って許可せらる。
 天保以後、明治の初年に至るまで、三座はみな浅草の猿若町に封じ籠められ、中村座は一丁目、市村座は二丁目、守田座は三丁目にあり。江戸が東京と改まりしに就ては、劇場が浅草のごとき偏寄かたよりたる場所にあるは不利益と観て、市の中央たる京橋に打って出づることを企てしは、守田勘弥の慧眼というべし。
○二月、二代目岩井紫若、八代目半四郎と改名す。
○五月、中村座の大切浄瑠璃に「音響曲馬鞭おとにきくきょくばのかわむち」を上演、そのころ渡来せる西洋曲馬を脚色したるものにて、菊五郎が伊太利人ジョアニに扮して好評。
○八月二十七日、各劇場の座主は東京府へ召喚せられ、興行中は見物人の多少にかかわらず、桟敷、土間の間数を標準として、日々百分の一の税銀を上納すべしと申渡さる。劇場に対する観覧税の始めなり。
○新富町守田座、新築落成して、十月三日より開場。狂言は一番目「三国無双瓢軍扇さんごくぶそうひさごのぐんばい」、二番目「ざんぎりお富」にて、権之助、左団次、仲蔵、半四郎、翫雀ら出勤す。同座は在来の構造に種々の改良を加え、その当時の劇場としては、もっとも進歩したるものと称せらる。

○三月、村山座の一番目「酒井の太鼓」にて、権之助の酒井左衛門尉と菊五郎の鳴瀬東蔵との渡り台詞に「かく文明の世の中に、開化を知らぬはおろかでござる」といい、観客はその時代違いを咎めずして、大いに喝采せり。いわゆる文明開化という言葉が、いかに流行したるかを察すべし。
○六月、中村座の二番目「梅雨小袖昔八丈」を初演。菊五郎の髪結新三、仲蔵の家主長兵衛と弥太五郎源七、いずれも好評。
○九月、河原崎権之助は市川三升さんしょうと改名。
○十一月、守田座にて「東京日日新聞」を上演。新聞物を舞台にせたる嚆矢なり。
○東京府令によって市内の劇場を十カ所と定められたれば、在来の三座のほかに、京橋区中橋の沢村座、日本橋区久松町の喜昇座、おなじく蠣殻町の中島座、四谷の桐座、本郷区春木町の奥田座など、相前後して新築開場せり。