吉田松陰(よしだしょういん)

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新島先生の記念として

  この冊子を献ぐ

        著者


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Trust thyself : every heart
vibrates to that iron string.
      ――Emerson.


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 題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可ふかなからん。
 昨年の春初「本郷会堂」において、「吉田松陰」を講談す。のち敷衍ふえんして『国民之友』に掲出する十回。さらに集めて一冊となさんと欲す、遷延せんえん果さず。このごろ江湖の督責とくせき急なるを以て、咄嗟とっさの間、遂にこれをす。原文に比すれば、その加えたるもの十の六、七、そのけずりたるもの、十の一、二。
 事実の骨子はおおむね『幽室文稿』『吉田松陰伝』より得きたる。その他参照にしたるもの枚挙まいきょいとまあらず。
 松陰の妹婿まいせいにして、その同年の友たる楫取かとり男爵、その親友高原淳次郎、松陰の後嗣こうし吉田庫三くらぞうの諸君は、本書をすにおいて、あるいは助言を与えられ、あるいは材料を与えられたり。特にしるして謝意を表す。
 松陰肖像は、門人浦無窮うらむきゅうが、松陰東都檻送かんそうせらるるに際して描きたるものを、さらに謄写したり。松陰神社、及び墳墓は、久保田米僊べいせんみずからその境にのぞんで実写したるもの。
 平象山へいしょうざんの詩は、勝はくの所蔵に拠り、東遊稿は、高原淳次郎君の所蔵に拠る。稿中吉田大次郎とあるは、松陰初めの名なり。後「寅次郎」と改む。この稿は彼が米艦にとうじて去らんとするに際し、これを高原君におくりて紀念となしたるものなりという。松陰が横井小楠しょうなん翁に送りたるは、横井時雄氏の所蔵に拠る。この書簡は彼が露艦をうて長崎にきたり、遠遊のこころざしを果さんと欲して得ず、その帰途周防すおうより横井翁に寄せたるもの。村田清風の詩は、嘉永かえい四年が叔父徳富一義かずよし、小楠翁にばいして天下を周遊するに際し、親しく村田翁に授りたるもの、今や蔵して余の家にり。
 以上みなその真蹟しんせきを石印に写したるもの、ねがわくは髣髴ほうふつとして、その真を失わざらん。
 勝海舟翁、佐久間象山と旧交あり、象山は松陰の師、しこうして余また海舟翁の門下に教を受く、故に翁の題言を請うて、これを篇首に掲ぐ、また因縁なくんばあらず。
明治二十六
第五帝国議会開会の日
東京民友社楼上ろうじょうにおいて
著者
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天保元年庚寅こういん  八月四日、はぎ城下松下村に生る。マヂニー隠謀のために捕えられ、追放せらる。
天保八年丁酉ていゆう  米穀騰貴。二月、大塩平八郎乱を大坂に起す。四月、家慶いえよし征夷大将軍に拝す〔慎徳公〕。
天保十一年庚子こうし 君侯毛利慶親よしちかの前において、兵書を進講す。
天保十二年辛丑しんちゅう 前将軍家斉こうず〔文恭公〕。水野越前守幕政の改革に着手す。
天保十三年壬寅じんいん 佐久間象山海防八策をたてまつる。清国しんこく道光どうこう二十二年、英兵上海を取り、南京に入る。南京条約る。七月、文政打払令うちはらいれいを修正して、寛政の旧に復す。
天保十四年癸卯きぼう 夏、村田清風毛利侯をたすけて、羽賀台の大調練をもよおす。水戸烈公驕慢につのれりとのとがこうむり、幽蟄ゆうちつせしめらる。
弘化元年甲辰こうしん  和蘭オランダ使節和蘭王の忠告書をもたらしきたる。
弘化二年乙巳いっし  松陰兵を山田亦介またすけに学ぶ。
弘化四年丁未ていび  孝明天皇即位。
嘉永三年庚戌こうじゅつ  八月、九州に遊ぶ。
嘉永四年辛亥しんがい  始めて江戸に遊ぶ。相房そうぼうを巡遊す。横井小楠天下を歴遊す。十二月、亡邸東北行をなす。
嘉永五年壬子じんし  籍を削り、禄をうばわる。
嘉永六年癸丑きちゅう  十年四方に遊学の公許を受く。六月朔日さくじつ、江戸に着す。六月三日、米国水師提督彼理ペリー浦賀に来る。七月、家定将軍となる〔温恭公〕。七月、露艦長崎に来る。九月、江戸を発し長崎におもむき、十二月、江戸に還る。