古事記(こじき)



 やつこ安萬侶やすまろまをさく、それ混元既に凝りしかども、氣象いまだあつからざりしとき、名も無くわざも無く、誰かその形を知らむしかありて乾と坤と初めて分れて、參神造化のはじめ、陰と陽とここに開けて、二靈群品の祖となりたまひき所以このゆゑに幽と顯とに出で入りて、日と月と目を洗ふにあらはれたまひ、海水うしほに浮き沈みて、神と祇と身を滌ぐにあらはれたまひき。かれ、太素は杳冥えうめいたれども、本つ教に因りてくにはらみ島を産みたまひし時をり、元始は綿※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)めんばくたれども、先の聖にりて神を生み人を立てたまひし世をあきらかにす。まことに知る、鏡を懸け珠を吐きたまひて、百の王相續き、劒ををろちを切りたまひて、萬の神蕃息はんそくせしことをやすかははかりて天の下をことむけ、小濱をばまあげつらひて國土を清めたまひき。ここを以ちて仁岐ににぎの命、初めて高千たかちたけあも神倭かむやまと天皇すめらみこと、秋津島に經歴したまひき。化熊川より出でて、天の劒を高倉に獲、生尾こみちさへきりて、大き烏吉野に導きき。※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)まひを列ねてあたはらひ、歌を聞きて仇を伏しき。すなはち夢にさとりて神祇をゐやまひたまひき、所以このゆゑに賢后とまを一〇。烟を望みて黎元を撫でたまひき、今に聖帝と傳ふ一一。境を定め邦を開きて、ちか淡海あふみに制したまひ一二かばねを正し氏を撰みて、とほ飛鳥あすかしるしたまひき一三。歩と驟と、おのもおのも異に、文と質と同じからずといへども、古をかむがへて風猷ふういうを既にすたれたるにただしたまひ、今を照して典教を絶えなむとするに補ひたまはずといふこと無かりき。

一 過ぎし時代のことを傳え、歴代の天皇これによつて徳教を正しくしたことを説く。
二 この序文は、天皇に奏上する文として書かれているので、この句をはじめすべてその詞づかいがなされる。安萬侶は、太の安麻呂、古事記の撰者、養老七年(七二三)歿。
三 混元以下、中國の宇宙創生説によつて書いている。萬物は形と氣とから成る。形は天地に分かれ、氣は陰陽に分かれる。
四 アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神の三神が、物を造り出す最初の神となつた。
五 イザナギ、イザナミの二神が、萬物を生み出す親となつた。
六 幽と顯とに以下、イザナギ、イザナミ二神の事蹟。
七 鏡を懸け以下、天照らす大神とスサノヲの命との事蹟。
八 安の河に以下、ニニギの命の事蹟。
九 神武天皇。
一〇 崇神天皇。
一一 仁徳天皇。
一二 成務天皇。
一三 允恭天皇。

 飛鳥あすか清原きよみはらの大宮に太八洲おほやしましらしめしし天皇の御世におよびて、潛龍元を體し、※(「さんずい+存」、第4水準2-78-43)せん雷期にこたへき。夢の歌を聞きて業をがむことをおもほし、夜の水にいたりて基を承けむことを知らしたまひき。然れども天の時いまだいたらざりしかば、南の山に蝉のごとくもぬけ、人とことと共にりて、東の國に虎のごとく歩みたまひき。皇輿たちまちに駕して、山川を凌ぎ度り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛ぢやうぼう威を擧げて、猛士烟のごとく起り、絳旗かうき兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けぬ。いまだ浹辰せふしんを移さずして、氣※きれい[#「さんずい+珍のつくり」、U+6CB4、15-本文-17]おのづから清まりぬ。すなはち牛を放ち馬をいこへ、※(「りっしんべん+豈」、第3水準1-84-59)がいていして華夏に歸り、はたを卷きほこ※(「楫のつくり+戈」、第3水準1-84-66)をさめ、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)ぶえいして都邑に停まりたまひき。ほしは大糜にやどり、月は夾鐘にあた、清原の大宮にして、昇りて天位にきたまひき。道は軒后にぎ、徳は周王にえたまへり。乾符をりて六合を※(「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90)べ、天統を得て八荒をねたまひき。二氣の正しきに乘り、五行のつぎてととのへ、あやしき理をけてひとすすめ、すぐれたるのりを敷きて國を弘めたまひき。重加しかのみにあらず智の海は浩汗として、ふかく上古を探り、心の鏡は※(「火+幃のつくり」、第3水準1-87-54)煌として、あきらかに先の代を覩たまふ。ここに天皇詔したまひしく、「朕聞かくは、諸家の[#「喪」の「畏-田」に代えて「冖/貝」、U+8CF7、16-本文-7]たる帝紀と本辭と既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふといへり。今の時に當りて、その失を改めずは、いまだ幾年いくとせを經ずして、その旨滅びなむとす。こはすなはち邦家の經緯、王化の鴻基こうきなり。かれここに帝紀を撰録し、舊辭くじ討覈たうかくして、僞を削り實を定め、後葉のちのよつたへむとおもふ」と宣りたまひき。時に舍人とねりあり、姓は稗田ひえだ、名は阿禮あれ、年は二十八。人となり聰明にして、目にわたれば口にみ、耳にるれば心にしるす。すなはち阿禮に勅語して、帝皇の日繼ひつぎと先代の舊辭とを誦み習はしめたまひき。然れどもとき移り世異にして、いまだその事を行ひたまはざりき。