海豹と雲(かいひょうとくも)


 風格高うして貴く、気韻清明にして、初めて徹る。虚にして満ち、実にしてまた空しきを以て、詩を専に幻術の秘義となすであらう。
 鳥の※(「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」、第3水準1-90-35)る、ただに尋常の行であらうか。海豹の水に遊ぶ、誰かまた険難の業とのみ判じよう。雲は太古にして若く、波は近う飜つて、かへつて帰する際涯を知らない。
 詩は我が生来の道である。その表現の玄微に好んで骨を鏤る。畢竟は我がふたつなき楽みを我と楽むのである。ただ志して未だ風韻の神に到らず、境涯整はずして、また未だ苦吟の傷痕を脱し得ざるを恥づる。
 望んであまりに遼遠なるが故に、深く頭を垂れるのである。
昭和四年 立秋
白秋
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水上みなかみは思ふべきかな。
苔清水湧きしたたり、
日の光透きしたたり、
橿かし馬酔木あしび、枝さし蔽ひ、
鏡葉かがみは湯津真椿ゆづまつばき真洞まほらなす
水上みなかみは思ふべきかな。

水上みなかみは思ふべきかな。
山の気の神処こころどの澄み、
岩が根の言問こととひ止み、
かいかがむ荒素膚あらすはだ
荒魂あらみたま神魂かみむすび、神つどへる
水上みなかみは思ふべきかな。

水上みなかみは思ふべきかな。
雲、狭霧、立ちはばかり、
雉子きぎし立ちはばかり、
白きの横伏しあへぎ、
毛の荒物あらもののことごとに道ふた
水上みなかみは思ふべきかな。

水上みなかみは思ふべきかな。
清清さわさわに湧きしたたり、
いやさやに透きしたたり、
神ながら神び古る
うづの、をを、うづの幣帛みてぐらの緒のしづもる
水上みなかみは思ふべきかな。

水上みなかみは思ふべきかな。
青水沫あをみなわとよたぎち、
うろくづのかれたぎち、
たまきはる命の渦の
渦巻の湯津石村ゆづいはむらをとどろき揺る
水上みなかみは思ふべきかな。


天地あめつち初発はじめの時、
かぎりなくむなしき時、
独神ひとりがみしにけり。
 萠えあが葦牙あしかび
 鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

わかく、浮脂うきあぶらなす、
海月くらげなす漂へる時、
独神ひとりがみ、ひと柱のみ。
 萠えあが葦牙あしかび
 鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

万象よろづ無し、光すら、
影すらも、頼む影、
独神ひとりがみ、ただ幽かにて。
 萠えあが葦牙あしかび
 鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

きはみなし、常久とことはに、
きはみなし、あやもなし、
独神ひとりがみ御身みみ隠します。
 萠えあが葦牙あしかび
 鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

昼もなし、夜もなし、
寒しとも、暑しとも、まだ、
独神ひとりがみ、ただとほります。
 萠えあが葦牙あしかび
 鮮緑さみどりの神よ。こをろ。


岩が根に言問こととはむ、
いにしへもかかりしやと。
 苔水のしみいづる
 かそけさ、このしたたり。

草に木に言問こととはむ、
いにしへもかかりしやと。
 おのづから染みいづる
 わびしさ、このあかるさ。

小さき日に言問こととはむ、
いにしへもかかりしやと。
 かがやきの空わたる
 わりなさ、このはるけさ。

神神に言問こととはむ、
いにしへもかかりしやと。
 はればれとひびき合ふ
 松かぜ、このさわさわ。


神神、
いざ、たせ、
照り満つ蘇枋すはうの実の、
こよなし、よく染みぬ。

神神、
みそなはせ、
はららぐ鷲の羽の、
こよなし、よく飛びぬ。

神神、
ああ、神神、
つ、向剥矢むかはぎやの、
こよなし、よく鳴りぬ。

神神、
ああ、神神、
この恋の、かぶらの、
こよなし、よく鳴りぬ。


さわさわや、ひきまとふ
我が荒絹あらぎぬ
 鴉の、青鴉の
 あときて。

雑草あらくさや、行き行けば
雲立ち立つ、
 曠野あらのの、鳴る沢の
 音ひそめて。

はてなさや、しづけさや、
風、小嵐さあらし
 こもらふ神神の
 素足見せて。

昼や、げに、息はずむ
毛の柔物にこもの
 少女をとめよ、ひと飛びに
 飛びかくれぬ。


昼は沸き、
蒼蠅さばへなすもの、
夜は夜とて
光る神神。
  (ほうたるよ)

言問こととひぬ、
遠つ神代は
青水沫あをみなわ
石根いはね、木の立。