雀の卵(すずめのたまご)




「雀の卵」が完成した。いよいよ完成した。と、思ふと思はず深い溜息がつかれた。ほつとしたのである。
 今、四校目の訂正をして、やつと済ましたところである。窓から見てゐると裏の小竹林には鮮緑色の日光が光りそよいでゐる。丘の松には蝉が鳴いて、あたりの草むらにも草蝉が鳴きしきつてゐる。南のバルコンに出て見ると、海がいい藍色をしてゐる。寺内の栗やかやの木や孟宗の涼しい風の上を燕が飛び翔つてゐる。雀も庭の枇杷の木の上で何かしてゐる。瀬の音もするやうだが、向ふの松風の下から浮々した笛や太鼓の囃子がきこえる。今日は盂蘭盆の十四日である。
 長い苦しみであつた。かう思ふとまた、目の中が火のやうに熱くなつた。
「雀の卵」此の一巻こそ私の命がけのものであつた。この仕事を仕上げるばかりに、私はあらゆる苦難と闘つて来た。貧窮の極、餓死を目前に控へて、幾度か堪へて、たうとう堪へとほしたのも、みんなこれらの歌の為めばかりであつた。だからたとへ拙くともこれらの一首一首にはみんな私の首が懸つてゐる。首の坐に直つて歌つたものばかりだ。
 そしてたうとう今日が来た。
 此のこれらの歌は大正三年からぽつぽつ作り出して、足かけ八年目の今月今日、大正十年七月十四日午後三時にたうとう最後の朱を入れて了つたのである。
 私の前に今冷たい紅茶が運ばれて来た。私はぐつとそれを一息に飲み干して了つた。
 蝉の声がする。涼しい海の風が吹きぬけてゆく。私は生きかへつた。


 大正三年の七月に私は小笠原父島から東京へ帰つた。さうして「輪廻三鈔」の中にあるやうな生活に入つた。それから「雀の卵」の生活が続いて来た。「葛飾閑吟集」の生活は五年の五月から初まつてゐる。六月の末に真間から小岩村の三谷に移つて、其処で新らしい紫煙草舎の閑寂三昧に入つた。哥路コロといふ小犬と、黒い子鴉と村の子供たちが私の朝夕の遊び相手であつた。私が外へ出る時には子鴉と小犬とがよく後を慕つて来た。子鴉は私が歩く時も私の頭や肩の上に留つて啼いてゐた。百姓どもは私を鴉の先生と呼んだ。内にゐる時には私が詩や歌を書いてゐる机の上に留まつてゐたり、悪戯したりした。私は時々歌の反古で、為ちらした鴉の白い糞を拭いて廻らねばならなかつた。秋の末に此の子鴉が本物の鴉になつて空へ飛んで行つて了ふと、冬が来て草舎は雀ばかりのお宿になつた。此の「雀の卵」の編纂にかかつたのは恰度その頃であつた。
 尤も、その時はこんなに大冊の三部歌集にならうとは思ひもかけてゐなかつた。小笠原から帰つて以来の、東京麻布での所謂「雀の卵」の生活に属する者が主で、それには「輪廻三鈔」中の大部分も含まれてゐた。が、葛飾のものはその後だんだん慾が出て附け足す事になつたのである。で、六年の一月から六月までは、「雀の卵」の中の歌の推敲や新作と、一緒に葛飾の歌を作る事に夢中にされた。冬枯のさびしさに雀の羽音ばかり聴いて、食ふものも着るものも殆ど無い貧しい中に、私は坐り通しであつた。私の机の周囲は歌の反古で山をなした。何度も何度も浄書し清書し換へた。はては狭い部屋中に散らかつて、手もつけられなくなつて了つた。で、半ヶ年の間はその中で埋まつて、掃除一つ為ずに夜はその隅の方に片寄つて寝た。それを寒い雀が廂から逆さ頭をして覗いたり、小犬の哥路コロが泥足のままで掻きちらしたりした。私は一心不乱であつた。
 その初夏、私は深く決意するところがあつて、東京へ出た。さうして紫煙草舎を閉づると同時に、歌の上の門下にも解散を宣した。さうして愈々一人ぽつちになつた。「雀の卵」に命を懸ける覚悟で、層一層の貧苦を欣求した。八月に本郷動坂の長屋生活が初まつた。此処で何度も餓死しかけた。が、私は同じく山なす歌反古の中に埋つてゐた。
 ここで紫煙草舎解散の辞を書いた。その中に左の一章がある。

「芸術家が自己の芸術の為に苦しむのは当然である。その苦しみが如何ほど深くとも、それはしかくあるべき事で、それはいささかもほこりとす可きでは無い。それはよく知つてゐる。然しその為めに払はれた犠牲が予想以外に多大であり他に累を及ぼす事があまりに惨酷である時、私はつくづく自分が詩人として生れた事を呪ふ。又、詩人として生きねばならぬ事を呪ふ。
 最近、それはこの八ヶ月の間、私がただ一冊の歌集「雀の卵」の為めにどれ丈精根を尽したか、それは私の妻がよく知つてゐる。それは詩人たる自分としても、殊に一家の窮境を救ふ為めにも、どうしても一日も早く完成させねばならなかつたのである。その為めに私は万事を放擲して、雀ばかり凝視めてゐた。阿蘭陀書房(弟の経営してゐるものである)の危機は日に日に迫つて来た。私は苦しんだ。然し私はその為めに自己の芸術上の良心を売る事はできなかつた。私は一切の妥協に耳を傾けなかつた。紫煙草舎の仕事も後廻しにした。私は親達にも弟達にも舎中の諸君にもそむいて、ただ推敲三昧に入つた。そのうちに時は過ぎ月日は徒らに私を取残して行つた。私と私の妻は食ふや食はずになつた。着のみ着の儘になつた。(ただ残つてゐるものは書籍の幾百冊と妻の琴と仕舞の扇とそれにあはれな書斎の器具だけになつた。)