三国志(さんごくし)

 素直ではあるが、りんとした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、
「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れがせて、掠奪りゃくだつを働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」
「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたりこうを下ってくると聞いている洛陽船らくようぶねでございます」
「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」
「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」
「茶を」
 役人は眼をみはった。
 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死ひんしの病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。
「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」
「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年かせいでためた小費こづかいもあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」
「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」
 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子ようすで、何か語らいながら立ち去ってしまった。
 は西に傾きかけた。
 あかねざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。
 と、やがて、
「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」
 彼は初めて草むらを起った。そしてまゆに手をかざしながら、上流のほうを眺めた。


 ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、うすずを負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗りゅうぜつきを帆ばしらにひるがえし、船楼せんろうは五さいに塗ってあった。
「おうーい」
 劉備りゅうびは手を振った。
 しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。
 おもむろにかじを曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。
 百戸ばかりの水村すいそんがある。
 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。をひいた仲買人の群れだの、鶏車チイチャーと呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物をかごに入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、いちが立とうとしていた。
 なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢ごかんの第十二代の帝王、霊帝れいてい居城きょじょうがあるし、珍しい物産や、文化のすいは、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。
 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江かこうしてきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易こうえきした。
 ここでも。
 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。
 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大ばくだいな値になって、とても自分の貧しい嚢中のうちゅうではあがなえなくなるからであった。
 またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。
 劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。
「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」
「え、茶だって?」
 洛陽らくようの商人は、鷹揚おうように彼を振向いた。
「あいにくと、お前さんにけてやるような安茶は持たないよ。一葉ひとはいくらというような佳品しか船にはないよ」
「結構です。たくさんはりませんが」
「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」
「はい。その、ほんとの茶をけていただきたいのです」
 彼の声は、懸命だった。
 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。
 その種子たねは、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、しゅうの代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々よよになっても、後宮こうきゅうの茶園に少しまれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。