また別な説には、一日に百
草を
嘗めつつ人間に食物を教えた
神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。
いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。
――だが、彼の懸命な
面もちと、
真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、
「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。
「持っております」
彼は、
懐中の
革嚢を取出し、銀や砂金を取りまぜて、相手の
両掌へ、惜しげもなくそれを皆あけた。
「ほ……」
洛陽の商人は、
掌の上の
目量を計りながら、
「あるねえ。しかし、
銀があらかたじゃないか。これでは、よい茶はいくらも上げられないが」
「何ほどでも」
「そんなに欲しいのかい」
「母が眼を細めて、よろこぶ顔が見たいので――」
「お前さん、商売は?」
「
蓆や
簾を作っています」
「じゃあ、失礼だが、これだけの
銀をためるにはたいへんだろ」
「二年かかりました。自分の食べたい物も、着たい物も、節約して」
「そう聞くと、断われないな。けれどとても、これだけの銀と替えたんじゃ引合わない。なにかほかにないかね」
「これも添えます」
劉備は、剣の
緒にさげている
琅
の珠を解いて出した。洛陽の商人は琅

などは珍しくない顔つきをして見ていたが、
「よろしい。おまえさんの孝心に免じて、茶と交易してやろう」
と、やがて船室の中から、
錫の小さい
壺を一つ持ってきて、劉備に与えた。
黄河は暗くなりかけていた。西南方に、
妖猫の眼みたいな大きな星がまたたいていた。その星の光をよく見ていると虹色の
暈がぼっとさしていた。
――世の中がいよいよ乱れる
凶兆だ。
と、近頃しきりと、世間の者が
怖がっている星である。
「ありがとうございました」
劉備青年は、錫の小壺を、
両掌に持って、やがて岸を離れてゆく船の影を拝んでいた。もう
瞼に、母のよろこぶ顔がちらちらする。
しかし、ここから故郷の
県楼桑村までは、百里の余もあった。幾夜の泊りを重ねなければ帰れないのである。
「今夜は寝て――」と、考えた。
彼方を見ると、
水村の
灯が二つ三つまたたいている。彼は村の
木賃へ眠った。
すると夜半頃。
木賃の亭主が、あわただしく起しにきた。眼をさますと、
戸外は真っ赤だった。むうっと蒸されるような熱さの中にどこかでパチパチと、火の燃える物音もする。
「あっ、火事ですか」
「
黄巾賊がやってきたのですよ旦那、
洛陽船と交易した仲買人たちが、今夜ここに泊ったのを
狙って――」
「えっ。……賊?」
「旦那も、交易した一人でしょう。奴らが、まっ先に狙うのは、今夜泊った仲買たちです。次にはわしらの番だが、はやく裏口からお逃げなさい」
劉備はすぐ剣を
佩いた。
裏口へ出てみるともう近所は焼けていた。家畜は、異様なうめきを放ち、女子どもは、焔の下に悲鳴をあげて逃げまどっていた。
昼のように大地は明るい。
見れば、
夜叉のような人影が、
矛や
槍や
鉄杖をふるって、逃げ散る旅人や村の者らを見あたり次第にそこここで
殺戮していた。――眼をおおうような地獄がえがかれているではないか。
昼ならば眼にも見えよう。それらの悪鬼は皆、
結髪のうしろに、黄色の
巾をかりているのだ。黄巾賊の名は、そこから起ったものである。本来は支那の――この国のもっとも尊い色であるはずの黄土の国色も、今は、善良な民の眼をふるえ上がらせる、悪鬼の
象徴になっていた。
「ああ、
酸鼻な――」
劉備は、つぶやいて、
「ここへ自分が泊り合せたのは、天が、天に代って、この
憐れな民を救えとの、
思し
召かも知れぬ。……おのれ、鬼畜どもめ」
と、剣に手をかけながら、家の
扉を蹴って、躍りだそうとしたが、いや待て――と思い直した。
母がある。――自分には自分を頼みに生きているただ一人の母がある。
黄巾の乱賊はこの地方にだけいるわけではない。
蝗のように天下いたるところに
群をなして
跳梁しているのだ。
一剣の勇では、百人の賊を斬ることもむずかしい。百人の賊を斬っても、天下は救われはしないのだ。