三国志(さんごくし)

「えっ、真実ですか」
「なんで嘘を。――すでにこういう前に、貴君の縄目を解いているではありませんか」
「ああ!」
 曹操は初めて、回生の大きな歓喜を、その吐息といきにも、満面にも現して、
「して、貴公は一体、何とおっしゃるご仁か」と、訊ねた。
「申しおくれました。自分は、陳宮ちんきゅうあざな公台こうだいという者です」
「ご家族は」
「この近くの東郡に住まっています。すぐそこへ参って、身支度を代え、すぐさま先へ急ぎましょう」
 陳宮は、馬をひきだして、先に立った。
 夜もまだ明けないうちに、二人はまた、その東郡をも後にすてて、ひた急ぎに、落ちて行った。
 それから三日目――
 日夜わかたず駆け通してきた二人は、成皐せいこう(河南省・※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)けいよう附近)のあたりをさまよっていた。
「今日も暮れましたなあ」
「もうこの辺までくれば大丈夫だ。……だが、今日の夕陽は、いやに黄いろッぽいじゃないか」
「また、蒙古風もうこかぜですよ」
「あ、胡北の沙風さふうか」
「どこへ宿りましょう」
「部落が見えるが、この辺はなんという所だろう」
「先ほどの山道に、成皐路せいこうじという道標が見えましたが」
「あ。それなら今夜は、訪ねて行くよい家があるよ」
 と、曹操は明るい眉をして、馬上から行く手の林を指さした。


「ほ、こんな辺鄙へんぴの地に、どういうお知合がいるのですか」
「父の友人だよ。呂伯奢りょはくしゃという者で、父とは兄弟のような交わりのあった人だ」
「それは好都合ですな」
「今夜はそこを訪れて一宿を頼もう」
 語りながら、曹操と陳宮の二人は、林の中へ駒を乗り入れ、やがてその駒を樹につないで、尋ね当てた呂伯奢の門をたたいた。
 主の呂伯奢は驚いて、不意の客を迎え入れ、
「誰かと思ったら、曹家のご子息じゃないか」
「曹操です。どうもしばらくでした」
「まあ、お入りなさい。どうしたのですか。一体」
「何がです」
「朝廷から各地へ、あなたの人相書が廻っていますが」
「ああその事ですか。実は、丞相じょうしょう董卓とうたくを討ち損じて、逃げて来たまでのことです。私を賊と呼んで人相書など廻しているらしいが、彼奴きゃつこそ大逆の暴賊です。遅かれ早かれ、天下は大乱となりましょう。曹操も、もうじっとしてはいられません」
「お連れになっている人はどなたですか」
「そうそう、ご紹介するのを忘れていた。これは道尉陳宮ちんきゅうという者で、中牟県ちゅうぼうけんの関門を守備しており、私を曹操と見破って召捕えたくらいな英傑ですが、胸中の大志を語り合ってみたところ、時勢に鬱勃うつぼつたる同憂の士だということが分ったので、陳宮は官を捨て、私は檻を破って、共にこれまでたずさえ合って逃げ走って来たというわけです」
「ああそうですか」
 呂伯奢りょはくしゃはひざまずいて、改めて陳宮のすがたを拝し、
「義人。――どうかこの曹操をたすけて上げてください。もしあなたが見捨てたら曹操の一家一門はことごとく滅んでしまうほかはありません」
 と、曹操の父の友人というだけに、先輩らしく慇懃いんぎんに将来を頼むのであった。
 そして呂伯奢は、いそいそと、
「まあ、ごゆるりなさい、てまえは隣村まで行って、酒を買って来ますから」
 と、に乗って出て行った。
 曹操と陳宮は、旅装を解いて、一室で休息していたが、主はなかなか帰ってこない。
 そのうちに、夜も初更の頃、どこかで異様な物音がする。耳をすましていると、刀でもぐような鈍い響きが、壁を越えてくるのだった。
「はてな?」
 曹操は、疑いの目を光らし、を排して、また耳をそばだてていたが、
「そうだ、……やはり刀を磨ぐ音だ。さては、主の呂伯奢は、隣村へ酒を買いに行くなどといって出て行ったが、県吏に密訴して、おれ達を縛らせ、朝廷の恩賞にあずかろうという気かも知れん」
 呟いていると、暗いくりやのほうで四、五名の男女の者が口々に――縛れとか、殺せとか――云いかわしているのが、曹操の耳へ、明らかに聞えてきた。
「さてこそ、われわれを、一室に閉じこめて、危害を加えんとする計にうたがいなし。――その分なれば、こっちから斬ッてかかれ」
 と、陳宮へも、事の急を告げて、にわかにそこを飛び出し、驚く家族や召使い八名までを、またたく間にみな殺しに斬ってしまった。
 そして、曹操が先に、
「いざ逃げん」と、促すと、どこかでまだ、異様なうめき声をあげて、ばたばた騒ぐものがある。
 厨の外へ出て見ると、生きているいのこが、脚を木に吊されて、啼いているのだった。
「ア、しまった!」
 陳宮ははなはだ後悔した。
 この家の家族たちは、猪を求めて来て、それを料理しようとしていたのだ――と、分ったからである。