三国志(さんごくし)



 曹操は、もう闇へ向って、急ごうとしていた。
「陳宮。はやく来い」
「はっ」
「何をくずぐずしているのだ」
「でも……。どうも、気持が悪くてなりません、慚愧ざんきにたえません」
「なんで」
「無意味な殺生をしたじゃありませんか。かわいそうに、八人の家族は、われわれの旅情をなぐさめるために、わざわざいのこを求めてきて、もてなそうとしていたんです」
「そんなことを悔いて、家の中へ、掌を合わせていたのか」
「せめて、念仏でも申して、とがなき人たちを殺した罪を、詫びて行こうと思いまして」
「はははは。武人に似合わんことだ。してしまったものは是非もない。戦場に立てば何千何万の生霊せいれいを、一日で葬ることさえあるじゃないか。また、わが身だって、いつそうされるか知れないのだ」
 曹操には、曹操の人生観があり、陳宮にはまた、陳宮の道徳観がある。
 それは違うものであった。
 けれど今は、一蓮托生れんたくしょうの道づれである。議論していられない。
 二人は、闇へ馳けた。
 そして、林の中につないでおいた駒を解き、飛び乗るが早いか、二里あまりも逃げのびてきた。
 ――と、彼方から、に二箇の酒瓶さかがめを結びつけてくる者があった。近づき合うにつれて、ぷーんと芳熟した果実のよい匂いが感じられた。腕には、果物の籠も掛けているのだった。
「おや、お客人ではないか」
 それは今、隣村から帰って来た呂伯奢りょはくしゃであったのである。
 曹操は、まずい所で会ったと思ったが、あわてて、
「やあ、ご主人か。実は、きょうの昼間、これへ来る途中で寄った茶店に、大事な品を忘れたので、急に思い出して、これから取りに行くところです」
「それなら、家の召使いをやればよいに」
「いやいや、馬でひとむち当てれば、造作もありませんから」
「では、お早く行っておいでなさい。家の者に、猪をほふって、料理しておくようにいっておきましたし、酒もすてきな美酒をさがして、手に入れてきましたからね」
「は、は、すぐ戻ってきます」
 曹操は、返辞もそこそこに、馬に鞭打って呂伯奢と別れた。
 そして四、五町ほど来たが、急に馬を止め、
「君!」と、陳宮を呼びとめ、
「君はしばらく此処で待っていてくれないか」
 と云い残し、何思ったか、再び道を引っ返して馳けて行った。
「どこへ行ったのだろう?」と、陳宮は、彼の心を解きかねて、怪しみながら待っていたところ、やがてのこと曹操はまた戻ってきて、いかにも心残りを除いて来たように、
「これでいい! さあ行こう。君、今のもって来たよ。一突きに刺し殺してきた」
 と、いった。
「えっ。呂伯奢を?」
「うん」
「なんで、無益な殺生をした上にもまた、あんな善人を殺したのです」
「だって、彼が帰って、自分の妻子や雇人が、皆ごろしになったのを知れば、いくら善人でも、われわれを恨むだろう」
「それは是非もありますまい」
「県吏へ訴え出られたら、この曹操の一大事だ。背に腹はかえられん」
「でも、罪なき者を殺すのは、人道にそむくではありませんか」
「否」
 曹操は、詩でも吟じるように、大声でいった。
「我をして、天下の人にそむかしむるとも、天下の人をして、我に反かしむるをめよ――だ。さあ行こう。先へ急ごう!」


 ――怖るべき人だ。
 曹操の一言を聞いて、陳宮はふかく彼の人となりを考え直した。そして心におそれた。
 この人も、天下の苦しみを救わんとする者ではない。真に世を憂えるのでもない。――天下を奪わんとする野望の士であった。
「……あやまった」
 陳宮も、ここに至って、ひそかに悔いを噛まずにいられなかった。
 男子の生涯をして、道づれとなったことを、早計だったと思い知った。
 けれど。
 すでにその道は踏み出してしまったのである。官を捨て、妻子を捨てて共に荊棘けいきょくの道を覚悟の上で来てしまったのだ。
「悔いも及ばず……」と、彼は心を取りなおした。
 夜がふけると、月が出た。深夜の月明りをたよりに、十里も走った。
 そして、何処か知らぬ、古廟こびょうの荒れた門前で、駒を降りてひと休みした。
「陳宮」
「はい」
「君もひと寝入りせんか。夜明けまでには間がある。寝ておかないと、あしたの道にまた、疲労するからな」
やすみましょう。けれど大事な馬を盗まれるといけませんから、どこか人目につかぬ木蔭につないで来ます」
「ムム。そうか。……ああしかし惜しいことをしたなあ」
「何ですか」
呂伯奢りょはくしゃを殺して戻ったくせにしてさ、おれとしたことが、彼がたずさえていた美酒と果実を奪ってくるのを、すっかり忘れていたよ。やはり幾らかあわてていたんだな」
「…………」