三国志(さんごくし)

 帝は、いたく憤られて、
豎子じゅし、かくもちんを、ないがしろに振舞うか」
 と、袞龍こんりょうそでをお眼にあてたまい身をふるわせてお嘆きになった。
 侍臣のうちに、楊彪ようひょうもひかえていた。――
 彼は、断腸の思いがした。
 自分の妻に、反間の計をふくめて、今日の乱を作った者は、誰でもない楊彪である。
 計略図にあたって、※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)かくし※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)りかくとが互に猜疑さいぎしあって、血みどろな角逐かくちくを演じ出したのは、まさに、彼の思うつぼであったが、帝と皇后の御身に、こんな辛酸が下ろうとは、夢にも思わなかったところである。
「陛下。おゆるし下さい。そして李※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)の残忍を、もうしばらく、お忍び下さい。そのうちに、きっと……」
 云いかけた時、幽室の外を、どやどやと兵の馳ける跫音あしおとが流れて行った。そして城内一度に、何事か、わあっとときの声に揺れかえった。


 折も折である。
 帝は、容色かおいろを変えて、
「何事か?」と、左右をかえりみられた。
「見て参りましょう」
 侍臣の一人があわてて出て行った。そして、すぐ帰って来ると、
「たいへんです。※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)かくしの軍勢が城門に押しよせ、帝の玉体を渡せと、ときのこえをあげ、を鳴らして、ひしめいておりまする」と、奉答した。
 帝は、喪心そうしんせんばかり驚いて、
「前門には虎、後門には狼。両賊はちんの身を賭物かけものとして、爪牙そうがぎあっている。出ずるも修羅、止まるも地獄、朕はそもそも、いずこに身を置いていいのか」と、慟哭どうこくされた。
 侍中郎じちゅうろう※(「王+奇」、第3水準1-88-6)ようきは、共に涙をふきながら、帝を慰め奉った。
※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)りかくは、元来が辺土のえびすそだちで最前のように、礼をわきまえず、言語も粗野なおとこですが、あの後で、心に悔いる色が見えないでもありませんでした。そのうちに、不忠の罪をじて、玉座の安泰をはかりましょう。ともあれ、ここは静かに、成行きをご覧あそばしませ」
 そのうちに、城門外では、ひと合戦終ったか、矢叫やたけびや喊声かんせいがやんだと思うと、寄手の内から一人の大将が、馬を乗出して、大音声にどなっていた。
「逆賊※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)りかくにいう。――天子は天下の天子なり、何故なにゆえなれば、わたくしに、帝をおびやかし奉り、玉座を勝手にこれへうつしまいらせたか。――※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)かくし、万民に代って汝の罪を問う、返答やあるっ!」
 すると、城内の陰から李※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)、さっさっと駒をすすめて、
「笑うべきたわごとかな。汝ら乱賊の難を避けて帝おん自らこれへ龍駕りゅうがはしらせ給うによって、李※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)御座ぎょざを守護してこれにあるのだ。――汝らなお、龍駕をおうて天子に弓をひくかっ」
「だまれっ。守護し奉るに非ず、天子を押しこめ奉る大逆、かくれないことだ。速やかに、帝の御身を渡さぬにおいては、立ちどころに、その素っ首を百尺の宙へ刎ねとばすぞ」
「なにをっ、小ざかしい」
「帝を渡すか、生命を捨てるか」
「問答無用っ」
 李※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)は、槍を振って、りゅうりゅうと突っかけてきた。
 郭※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)は、大剣をふりかざし、おのれと、唇をかみ、まなじりを裂いた。双方の駒はあわを噛んで、いななき立ち、一上一下、剣閃槍光けんせんそうこうのはためく下に、駒の八ていは砂塵を蹴上げ、鞍上あんじょうの人は雷喝らいかつを発し、勝負は容易につきそうもなかった。
「待ち給え。両将、しばらく待ち給え!」
 ところへ。
 城中からせ出して、双方を引分けた者は、つい今し方、帝のお傍から見えなくなっていた太尉楊彪ようひょうだった。
 楊彪は、身を挺してふたりに向って、懸河けんがの弁をふるい、
「ひとまず、ここは戦をやめて、双方、一応陣を退きなさい。帝の御命でござる。御命にそむく者こそ、逆賊といわれても申し訳あるまい」と、いった。
 その一言に、双方、兵を収めてついに引退ひきしりぞいた。
 楊彪は、翌日、朝廷の大臣以下、諸官の群臣六十余名をいざなって、※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)かくしの陣中におもむいた。そして一日もはやく※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)りかくと和睦してはどうかとすすめてみた。
 誰もまだ気づかないが、もともとこの戦乱の火元は楊彪なのである。ちと薬が効きすぎたと彼もあわてだしたのだろうか。それともわざと仲裁役を買ってことさら、仮面の上に仮面をかむって来たのだろうか。彼もまた複雑な人間の一人ではある。