三国志(さんごくし)



 呂布りょふは、やぐらに現れて、
「われを呼ぶは何者か」と、わざと云った。
 泗水しすいの流れを隔てて、曹操の声は水にこだまして聞えてきた。
「君を呼ぶ者は君の好き敵である許都きょと丞相じょうしょう曹操だ。――しかし、君と我と、本来なんの仇があろう。予はただご辺が袁術えんじゅつと婚姻を結ぶと聞いて、攻め下ってきたまでである。なぜならば、袁術は皇帝を僭称せんしょうして、天下をみだす叛逆の賊である。かくれもない天下の敵である」
「…………」
 呂布は、沈黙していた。
 河水をわたる風は白く、蕭々しょうしょうと鳴るは蘆荻ろてき翩々へんぺんとはためくは両陣の旌旗せいき。――その間一すじの矢も飛ばなかった。
「予は信じる。君は正邪の見極めもつかないほど愚かな将軍ではないことを。――今もしほこを伏せて、この曹操に従うならば、予は予の命を賭しても、天子に奏して君の封土ほうどと名誉とを必ず確保しておみせしよう」
「…………」
「それに反し、この際、迷妄めいもうにとらわれて降らず、君の城郭もあえなく陥落する日となっては、もう何事も遅い、君の一族妻子も、一人として生くることは、不可能だろう。のみならず、百世の後まで、悪名を泗水に流すにきまっている。よくよく賢慮けんりょし給え」
 呂布は動かされた。それまで黙然と聞いていたが、やにわに手を振り上げ、
「丞相丞相。しばらくの間、呂布に時刻の猶予ゆうよをかし給え。城中の者とよく商議して、降使をつかわすことにするから」
 傍にいた陳宮は、意外な呂布の返辞に愕然として跳び上がり、
「な、なにをばかなことを仰っしゃるかっ」
 と、主君の口をふさぐように、突然、横あいから大音声で曹操へ云い返した。
「やよ曹賊そうぞく。汝は、若年の頃から口先で人をだます達人だが、この陳宮がおる以上、わが主君だけはあざむかれんぞ。この寒風に面皮めんぴをさらして、無用の舌の根をうごかさずと、早々退散しろ」
 言葉の終った刹那、陳宮の手に引きしぼられていた弓がぷん弦鳴つるなりを放ち、矢は曹操の※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)かぶと眉庇まびさしにあたってはね折れた。
 曹操は、くわっとまなじりをあげて、
「陳宮ッ、忘るるな、誓って汝の首を、予の土足に踏んで、今の答えをなすぞ」
 そして左右の二十騎に向って、即時、総攻撃にうつれと峻烈しゅんれつに命じた。
 やぐらの上から呂布はあわてて、
「待ちたまえ、曹丞相そうじょうしょう。今の放言は、陳宮の一存で、此方の心ではない。それがしは必ず商議の上、城を出て降るであろう」
 陳宮は、弓を投げつけて、ほとんど喧嘩面けんかづらになって云った。
「このになって、なんたる弱音よわねをはき給うことか。曹操の人間はご存じであろうに。――今、彼の甘言にたばかられて、降伏したが最後、二度とこの首はつながりませんぞ」
「だまれっ、やかましいっ。汝一存を以てなにを吠ゆるか」
 呂布も躍起となって、云い争い、果ては剣に手をかけて、陳宮を成敗せんと息巻いた。
 敵の目からも見ゆる櫓のうえである。主従の喧嘩は醜態だ。高順や張遼たちは、見るに見かねて、二人を押しへだて、
「まあ、ご堪忍ください。陳宮も決して自分のために、おもておかしていっているわけではなし、みな忠義のほとばしりです。元来、忠諫ちゅうかんの士です。今、唯一つのお味方を失っては決していいことはありますまい」
 呂布もようやく悪酔いのさめたようにほっと大息を肩でついて、
「いや、ゆるせ陳宮。今のは戯れだ。――それより何か良計があるなら惜しまず俺に教えてくれい」
 と、云い直した。


 呂布には、ほとほと愛想もつきたらしい陳宮であったが、かりそめにも主君である。その主君から頭を下げて機嫌をとられると、彼はまた、忠諫の良臣となって粉骨砕身せずにはいられない気持になった。
「良計はなきにしも非ずですが」
 陳宮も辞を低うして答えた。
「ただお用いあるか否かが問題です。ここに取るべき一策としては『掎角きかくはかりごと』しかありません。将軍は精兵を率いて、城外へ出られ、それがしは城に在って、相互に呼吸をあわせ、曹操をして、首端しゅたんの防ぎに苦しませるものであります」
「それを掎角の計というか」
「そうです。将軍が城外へ出られれば、必ず曹操はその首勢を、将軍へ向けましょう。すると、それがしは直ぐ城内からその尾端びたんを叩きます。また、曹操がお城のほうへ向かえば、将軍も転じて、彼の後方をおびやかし、かくして、掎角の陣形に敵を挟み、彼をほふるの計であります」
「ムム、なるほど、良計良計。孫子も裸足はだしだろう」