随筆 私本太平記(ずいひつ しほんたいへいき)






 おそらく、十代二十代の人には一笑にも値しまい。けれど私たちの年齢の者は、平凡なはなしだが、「ああ、元日か」の感慨を年々またあらたにする。昨日の歴史、あの戦中戦後を通って来て、生ける身を、ふしぎに思うからである。そこで去年(昭和三十二年)の正月の試筆には、たわむれ半分に「元日や今年もどうぞ女房どの」などという句を色紙にかけて拝むことにしておいた。すると升田幸三氏やらだれやら、つね日ごろ女房泣かせのやからが来ては「おれにも書いてくれ」と請われるまま、ついトソ気分で、おなじ句を何枚も人に書いてやった。ところが中にはそんな甘い文句の家庭円満剤では何のもないらしいンべな亭主どのもあったので、そんな人へは特に「これは細君に上げ給え」といってはべつな句をこう書いてあげた。
うぐいすやうちの亭主はどこの木に

 むかしから、“太平楽”という言葉がある。クリスマスからつづいてまだ不足顔のめない“正月の亭主族”のごとき者をいったのだろう。語源は「太平記」以前であるにちがいない。それが古典の太平記に用いられてから謡曲、民劇、小説などでさらに一般化したのである。室町期の記録もの、お伽草子とぎぞうし。また江戸時代の小説類などおよそ“太平記”という書題を取ったものは百種以上にものぼるであろうか。たとえば「お伽太平記」「ごばん太平記」「女太平記」「東国太平記」「化物太平記」近年でも「新聞太平記」「何々太平記」など、とてもかぞえきれない。私のこんど書く「私本太平記」もその一つに入るわけである。けれど無数の書名は、じっさいには、ほんとの太平記の内容とは、何のかかわりもなく、ただその“太平”ということばの持つ広さやばくとした思わせぶりに仮托かたくしたものが大部分であるといってよい。

 原典の「太平記」を書いた作者は、小島ノ法師円寂とされている。が、この人の伝記もよくわかっていない。書かれた時代は正平から応安年間(今から約六百年前)ごろだろうと考察されている。いずれにせよ、足利尊氏の死期をまたいだ頃だったらしい。しかし筆者の小島ノ法師は、当時でいう宮方(南朝方)の人であったから、その物語は多分に一方的であって、史料として信じるわけにいかない学説は古くからあった。けれどまた、北朝方の手に成った「梅松論ばいしょうろん」という一書もあり、これはむしろ足利尊氏方なので、二書をあわせ見れば、やや公平にちかい客観点に立てぬことはない。そのほか、同時代の日記物、文書、古記録のたぐいは、古くから現代の歴史家までが、あまねくあさりつくしているので、新発見というような史料は、おそらく今日ではもうありえない。求めてもむりである。
 けれどまた、私の拙い作品でも、これが新聞小説となって、世衆の関心にふれてくると、社寺院の開かずのとびらや郷土の暗黒倉などから、何が出てくるかわからない。現に、きのうも電話で、私にかくれた南北朝史料を提供したいからという人があり、いままた、この随筆を書いているとき、階下の玄関へ、同様な意味をいって面会を求めきた訪客があるが、礼をつくしてお断りした。この後も、そういう御好意には謝するが、会ったり御返事を書いたりは一切しないつもりである。というよりも、じっさいの小説へ毎日の執筆をつづけ出すと、とても私には時間がない。私の「私本太平記」への目標や文芸構成のことは、べつな“作者のことば”でつくしてある。
 さきに私は「新・平家物語」を書いたが、「太平記」は、それにくらべると、おなじ古典でも、時代が下がるし、人の考え方や世の中も一変している。平家には見えたあの優雅な人々の無常観も“あわれ”さもまた文章の詩趣も至って乏しい。総じて文学価値としては古典平家の方が太平記よりも上だとおもう。けれど人間社会のけわしさとか、個々の苦闘とか、また歴史上の日本という国の未成年期山脈をふみ越えて来た祖先たちのあとを振向いてみるものにしては、平家の世頃とは、比較にならないものがある。それだけに、小説としても、生々しい人間臭をもつとおもう。
 しかし、これまでの太平記や、いわゆる南北朝概念では、足利尊氏にしろ新田義貞にしろ、また正成正行父子にしろ、誰の観念の中にも、人間としてはいない。極端なまでに偶像化されたままである。こころみに、私は周囲の高校生や大学初期の若い人たちに試問してみたが、ほとんどがよくもわるくもそれらの史上の人物について知るところがない。わけて、日本の中世歴史中でも重要な五、六十年間において、どんな風に、この国があったのか、北朝、南朝などと分れていたのか、そんな社会の下の庶民や文化の生態はどうなっていたのかなど、中年以上の人でも、今ではすこぶるあいまいになっている。そしてこのあいまいな歴史の密林にたいして、ただ一種の懐疑だけをもっているのが実状ではなかろうか。