峠に関する二、三の考察(とうげにかんするに、さんのこうさつ)


 ビョルンソンのアルネの歌は哀調であるけれども、我々日本人にはよくその情合がわからない。日本も諾威ノルウェーに劣らぬ山国で、一々の盆地に一々の村、国も郡も村も多くは山脈を以て境しているが、その山たるや大抵春は躑躅つつじ山桜の咲く山で、決してアルネの故郷の如く越え難き雪の高嶺ではない。山の彼方の平野と海とは、登れば常に見える。他郷ながら相応の親しみがある。中世の生活を最もあざやかに写している狂言記、あれを読んで見てもよくわかるが、山一つ彼方かなた伯母おばさんがあって酒を造っていたり、有徳人が住んでむこを捜していたりする。自分も子供の頃は「うり茄子なすびの花ざかり」とか、「おまんかわいや布さらす」とかいう歌のおもむきをよく知っていた。その頃は小学校の新築の流行する時代であった。どの山へ登って見てもペンキ塗の偉大なる建築物が、必ず一つずつは見えた。そして振返って見ると自分の里も美しかったのである。


 境の山には必ず山路がある。その最初の山路は、石を切り草を払うだけの労力も掛けない、ただの足跡であったのであろうが、獣すら一筋のみちをもつのである。ましてや人は山に住んでも寂寞せきばくいとい、行く人に追付き、来る人に出逢おうとつとめるから、自然に羊腸ようちょうが統一するのである。それのみならずどうしてこの山を越えようかと思う人の、考がまた一つである。左右の麓を回れば暇がかかる、正面を越えるなら谷川の川上、山の土の最も多く消磨した部分、当世の語で鞍部あんぶを通るのが一番に楽である。純日本語ではこれを「たわ」といい(古事記)また「たをり」ともいっている(万葉集)。「たわ」「たをり」は地名とって諸国に存するのみならず、普通名詞としても生きている。鎌倉の武士大多和三郎は三浦の一族で、今の相州三浦郡武山村大字太田和はその名字みょうじの地である。伊賀の八田から大和へ越える大多和越、その他この地名は東国にも多く、西へ行くほどなお多い。「たをり」という方では大隅の福山から日向の都城みやこのじょうへ越える小山、今は馬車の走る国道であるが、その頂上の民居を通山という。伊予喜多郡喜多灘村大字今坊字トオリノ山、備前邑久郡裳樹村大字五助谷字通り山、美濃恵那郡静波村大字野志字通り沢、越後南蒲原郡大崎村大字下保田字通坂、常陸那珂郡勝田村大字三反田字道理山等も皆これである。中国では峠を「たわ」または「たを」といい、その大部分は乢の字を当てている。乢はいわゆる鞍部の象形文字で、峠の字と同じく和製の新字である。内海を渡って四国に入れば、「たを」とは言わずに「とう」と呼ぶけれども、「とう」はまた「たを」の再転に相違ない。土佐の国中から穴内あなない川の渓へ越える繁藤しげとうに、肥後の人吉から日向へ越える加久藤かくとうは、共に有名な峠であるがこのとうもまた「たを」であろう。「たうげ」は「たむけ」より来た語だというのは、通説ではあるが疑をるる余地がある。行路の神に手向たむけをするのは必ずしも山頂とは限らぬ。逢坂山おうさかやま山城やましろの京の境、奈良坂は大和の京の境であるから、道饗みちあえの祭をしただけで、そこが峠の頂上であったためではなかろう。「たうげ」もまた「たわ」から来た語であるかも知れぬのである。


「たわ」及「たをり」は今日のたわむという語と、語源を同じくしていることは明かであるが、その「たわ」は山頂の線が一所たわんで低くなっていることをいうのか、または山の裾が幾重もかさなって屈曲して入込んでいるのをいうのか、いずれとも決しかねる。『新撰字鏡』を見ると「嶼、山の豊かなる貌、山のみね、ゐたをり云々」とあり。また「※[#「土へん+岸」、U+5813、244-15]、曲岸也、くま又たをり又ゐたをり」ともある。実際昔の人が山を越えるのには、頂上の低い所を求めると同時に、水の流に依って奥深くまで、迷わず入り立つことの出来る所を求むべき道理である。谷川に沿って上れば、自然に低い所を越えることになる。従って「たわ」は頂線の「たわ」か、山側の「たわ」か容易に決しにくいのである。とにかく昔の山越は深く入って急に越え、今の峠は浅い外山からゆるく越えることは事実である。大小何れの峠を見ても旧道と新道との相違は即ちこれである。峠路に限って里程りていの遠くなるのを改修といっている。それというのが七寸以下の勾配でなければ荷を負うた馬が通らず、三寸の勾配でなければ荷車が通わぬとすれば、馬も車も通らぬ位の峠には一軒の休み茶屋もなく、誰しも山中に野宿はいやだから、急な坂で苦しくとも一日で越える算段をするのである。そのためには谷奥の山村は誠に重要であった。関所のある峠は勿論のこと、関はなくても難所と聞いては、西行さいぎょう宗祇そうぎ此処ここへ来て一宿したからである。しかるに新道が開けるとその村は不用になる。車屋あの村は何と言うなどと聞くと、それが昔の宿場であったこともしばしばである。人の智慧は切通しとなり隧道すいどうとなり、散々山の容を庭木扱いにした揚句あげく、汽車の如きに至っては山道を平地にしてしまった。