山の人生(やまのじんせい)

 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村のすみに、まだがらのような存在を続けていることであろう。
 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。


 黙って山へ入って還って来なかった人間の数も、なかなか少ないものではないようである。十二三年前に、尾張瀬戸町にある感化院に、不思議な身元の少年が二人まで入っていた。その一人は例のサンカので、相州の足柄あしがらで親にてられ、甲州から木曾きその山を通って、名古屋まできて警察の保護を受けることになった。
 今一人の少年はまる三年の間、父とただ二人で深山の中に住んでいた。どうして出てきたのかは、この話をした二宮徳君も知らなかったが、とにかくに三年の間は、火というものを用いなかったと語ったそうである。食物はことごとくなまで食べた。小さな弓を造って鳥や魚を射て捕えることを、父から教えられた。
 春が来ると、いろいろの樹の芽を摘んでそのまま食べ、冬は草の根を掘って食べたが、その中には至って味のいものもあり、年中食物にはいささかの不自由もしなかった。衣服は寒くなると小さな獣の皮に、木の葉などをつづって着たという。
 ただ一つ難儀であったのは、冬の雨雪の時であった。岩のくぼみや大木のうつろの中に隠れていても、火がないために非常につらかった。そこでこういう場合のために、川の岸にあるカワヤナギの類の、髯根ひげねのきわめて多い樹木を抜いてきて、その根をよく水で洗い、それを寄せ集めて蒲団ふとんのかわりにしたそうである。
 話が又聞またぎきで、これ以上の事は何も分らない。この事を聴いた時には、すぐにも瀬戸へ出かけて、も少し前後の様子を尋ねたいと思ったが、何分なにぶんにも暇がなかった。かの感化院には記録でも残ってはいないであろうか。この少年がいろいろの身の上話をしたということだが、何かよくよくの理由があって、彼の父も中年から、山に入ってこんな生活をしたものと思われる。

 サンカと称する者の生活については、永い間にいろいろな話を聴いている。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにしておらぬ点、次には定まった場処に家のないという点であるかと思う。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたようであるが、その多くは話としても我々には伝わっておらぬ。
 冬になると暖かい海辺の砂浜などに出てくるのから察すると、彼らの夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奥州から、遠州へは信濃しなのから、伊勢の海岸へは飛騨ひだの奥から、寒い季節にばかり出てくるということも聴いたが、サンカの社会には特別の交通路があって、たにの中腹や林の片端かたはしつつみの外などの人にわぬところを縫うている故に、移動の跡が明らかでないのである。
 磐城いわき相馬そうま地方などでは、彼らをテンバと呼んでいる。山の中腹の南に面した処に、いくつかの岩屋がある。秋もやや末になって、里の人たちが朝起きて山の方を見ると、この岩屋から細々ほそぼそと煙が揚がっている。ああもうテンバがきているなどという中に、子を負うた女がささらや竹籠たけかごを売りにくる。などの損じたのを引き受けて、山の岩屋に持って帰って修繕してくる。
 土地の人とはまるまる疎遠そえんでもなかった。若狭わかさ・越前などでは河原に風呂敷ふろしき油紙の小屋をけてしばらく住み、ことわりをいってその辺の竹や藤葛ふじかずらってわずかの工作をした。河川改修が河原を整理してしまってからは、金を払って材料の竹を買う者さえあった。しかも土着する者は至ってまれで、多くはほどなくいずれへか去ってしまう。路のつじなどに樹の枝または竹をさし、しるしを残して行く者は彼らであった。小枝にって先へ行った者の数や方角を、後から来る者に知らしめる符号があるらしい。
 仲間から出て常人に交わる者、ことに素性と内情とをかたることをはなはだしくにくむが、外から紛れてきてサンカの群に投ずる常人は次第に多いようである。そうでなくとも人に問われると、遠い国郡を名乗るのが普通で、その身の上話から真の身元を知ることはむつかしい。大体においおい世間なみの衣食を愛好する風を生じ、中には町に入って混同してしまおうとする者も多くなった。それが正業を得にくい故に、おりおりは悪いこともするのだが、彼らの悪事は法外に荒いために、かえって容易にサンカの所業なることが知れるという。