野草雑記・野鳥雑記(やそうざっき・やちょうざっき)




 しばらく少年と共に郊外の家に住むことになって、改めて天然を見なおすような心持が出て来た。少なくとも今までの観察の、大抵たいていは通りすがりのものだったことを感ずる。旅は読書と同じく他人の経験を聴き、出来るだけ多くの想像をもって、その空隙くうげき補綴ほてつしなければならぬ。自分のごとき代々の村人の末でも、ほんのわずかな間の学問生活によって、もうこれほどまでに概念のしもべになろうとしている。これは忘れたというよりも最初からかたろうとしなかったためであろう。今において始めて野の鳥のいたずらに饒舌じょうぜつでなかったことを考えざるを得ない。


 はたけに耕す人々の、朝にはまだつぼみと見て通った雑草が、夕方には咲き切って蝶の来ているのを見出すように、時は幾かえりも同じ処を、眺めている者にのみ神秘を説くのであった。静かに聴いていると我々のすずめの声は、毎日のように成長し変化して行く。ある日はけたたましい啼声なきごえを立てて、彼等の大事件を報じ合おうとしている。これが人間でいえば物語であって、集めまたは編纂へんさんして歴史となるべきものであろうが、あれを構成して行くめいめいの悩みとよろこびとの交渉配合が、こんなに人生の片寄った一小部分であったことを、今まではとんと心付かずにいた。


 雲雀ひばりが方々の空で鳴いている。多くはこれも自分の畠を持っていて、他処よそへ出て行かぬ時ばかり、最も自由にさえずり得るものらしい。一つ一つに流義というようなものがあって、出来るならば名を付けてやりたい気がする。ある者はいかにもブマであって、朝も夕方も少しでも調子をかえず、土の上にいて空の声を啼いたりする。そうかと思うと精確におりる時、立つとき、横に行く時と歌いかえ、高さによって次々の節を変えるものがある。かごに入れて飼い始めてから、人はようやくその巧拙こうせつを聴分け、価の差等を設けようとするが、もし差等があるならば疑いもなく持って生れたものであった。こんな東京の近くの、真似まねならば幾らでも出来る土地に住みながら、一生涯下手に啼いて、暮してしまう雲雀もあるのを見れば、親が教えるということは師弟とはまた別のもので、鳥屋が名鳥の籠の隣へひなを連れて来て、好い調子を学び習わしめようとするのは、一つにはただ天分の試み、今一つは外界を遮断しゃだんして、仮に幼ない者にこれを親かと思わしめるだけの細工であったかも知れぬ。


 だから雛を育てることのむつかしいがんなどのおとりは、かつて荘周そうしゅう寓言ぐうげんにもあったように、その鳴声の遺伝がたちまちに食われると愛せられるとの境を区別する。美濃から信濃にかけては秋に入ると、つぐみの売買が盛んであるが、好いオトリの何年かを飼い馴らしたものは、ただの仲間の麹漬こうじづけになる鶫の、何千羽を集めたよりも高い価を持っている。それが決して教育の力ではなく、単に偶然にその声の囮に適することが発見せられて、多数の中からまれに一つ、取残して珍重せられたというに過ぎぬ。専門の鑑定家の話を聴いて見ると、声のいというのも決して鶫たちのために佳いのではない。よく鳴く鳥でもその声が悲しければ、空を行く群がうかうかと降りては来ない。籠にいながら籠を忘れて、ただ食糧と水との豊かなることに満足してさも楽しそうに歌っていると、しからばここで休もうと多くの渡り鳥が、網を張り渡した夜の明け方の小松原へ、ばらばらと飛んで来て捕えられるのである。文人で言うならば病的天才である。ここいらの野の雲雀の群には、そういう標準から鳴声の善悪を批判せられるような心配は幸いにしてまだないばかりか、彼等の仲間だけでは頓馬とんまを極上々と、きめていたところで致し方はないのである。


 少なくも下手はお構いなしに、精一杯に彼等は鳴いている。それをまた我々が色々と意味を付けて聴こうとしていたのである。自分などの小さい頃には、雲雀は
テンマデノボロウ、テンマデノボロウ
と啼くものと思っていたから、麦畠のへりの土にいながら、そういう鳴き方をするのを聴くと、何かなまけ者の夢のようでおかしかった。それからまたあの羽を互いに傾けつつ下って来る声を
オリヨウ、オリヨウオリヨウオリヨウ
と聴く習いがあったゆえに、たまたまそれが行動と一致しないと、今でもあの雲雀はどうかしていると、思わざるを得ないのである。面倒に考えて来るとこうした批評家のもつ先例の集積は、目に見えぬ自然らしさを以て法則の力を支持するようでもあるが、はたしてしからば何故なにゆえに突如として、非難せらるべき雲雀をこの世の中に、出現せしめたかという問題が残る。いやこれはとんでもない理屈になったが、とにかくに我々の故郷の小鳥は、ただそれぞれに人間の心持ちだけを鳴いていたのである。