或る少女の死まで(あるしょうじょのしまで)

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大正八年十一月


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 遠いところで私を呼ぶ声がするので、ふと眼をさますと、枕もとに宿のおかみが立っていた。それを見ながら私はまたうとうとと深い睡りに落ちかかった。
「是非会わなければならないと言って、そとで誰方どなたか待っていらっしゃいます。おやすみになっていらっしゃいますと言っても、是非会わなければならないって――。」
 私はゆめうつつに聴いていたが、もしやと思ってはっとした。すると、ふしぎに頭がいちどに冷たくなった。
「どんな人です。」
「眼の鋭い、いやな人です。とにかくおあいになったらどう。いらっしゃいますと私はそう申しておいたのですから。」
「じゃ階下へいま行きます。」
 私は着物をきかえると、袂のところに泥がくっついたのが何時の間にか乾いたのであろう、ざらざらとこぼれた。
 階下へ降りると、玄関の格子戸のそとに、日に焼けた髯の長い男が立っていた。見ると同時に、額からだらだらと流れた血を思い出した。ふらふらして宿へかえったとき、宿の時計が午前二時を指していたことと、宿のものが皆寝込んでひっそりしていたことを思い出した。
「あなたですか。××さんと言われるのは。」
 いきなり田舎訛りのある言葉で言った。
「そうです。御用は。」
「私はこんなものです。」と一枚の名刺を出した。駒込署刑事何某とあった。
「すぐ同行してもらいたいのです。昨夜は遅くおかえりでしたろうな。」
 私はすぐに、
「二時にかえったのです。みな分っています。いま着換えしますから。」と言った。
 私は二階へあがると、泥のつかない着物を押入から取り出して着た。そして室の中を丁寧に見廻した。ガマ口の金を半分だけ机の曳出しに入れたが、こんどは辞書の中へ挿み込んだ。何故かこんなことをしなければならないような気がした。くしゃくしゃになった敷島の殻を反古籠ほごかごに投げ込んで、ぬぎすてた着物も畳んだ。室が乱れていないのを見て、ほっと安心した。
 階下へ下りる、すぐ男とつれ立って街路へ出た。男は私とならんで歩いていたが、私はその顔を「見ないように」して歩いた。もう朝日が昇りはじめていた。商家の小僧らが表に水をまいたり、女中らが拭き掃除をしたりしていた。
 駒込林町の裏町のまがりくねった道を、私どもは黙って歩いた。男の紺の褪めた袖がちらちらと見えた。かれは私の右に添ってあるいていたからだ。この樹木の多い緑深い静かな町のとある垣根を越えた幾本かの日向葵ひまわりの花が、しずかに朝日をあびながらゆらりと揺れているのが、特に山の手の朝らしく目に触れた。表の通りを白いむっちりした二の腕を露わして掃いている、若い細君らしいのが、凝然じっと私どものあとを見送ったりしていた。総てが静かに穏かな、晴れ亘った夏の朝の心に充ちていた。
 私は深酒したのと酷い疲れとで、あたまがふらふらしていたが、それとは反対に心はハッキリと昨夜の出来事の逐一を辿っていた。まるで蜘蛛が糸を操るように、素早く、その光景を描いていた。

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 S酒場は団子坂からやや根津へ寄ったところの、鳥屋や、淫売屋の小路の中に、そまつな硝子ガラス戸を立てこんだ新しい建物からなり立っていて、そこの鍵形になったテエブルの正面に、いろいろな酒瓶が処せまく並べてあって、そこにおかみが何時も坐っていた。おかみは目の大きな、いきなところがあったし、お世辞もよかった、というより、何よりも料理らしいものがなくて、ほんの酒専門であった理由から貧しい私など、晩食前にはつい近くの下宿からよく通って行ったのであった。そこには鶴のようにやせた十二、三の女の子がいて、よくお酌をしていた。ときとするとこの少女はねむりながら酌をすることがあるほど、ひどい睡眠不足にかかっているらしかったが、睡りながら酌いでいても、特に酒をこぼすというようなこともないほど上手であった。たとえば上野などのあの繁華な人通りや車馬のはげしく通るところで能く睡りながら車をひく商家の小僧がいるように、それが特に自動車に轢かれるということもなく完全に役目を果すように、この少女もときどき睡りながら、ゆめを見ながら酌をしていたのである。
 この少女の二重になった目は大きく、微笑わらうと可憐な、どこかドストイエフスキイの中に出てくる少女によく似ていた。私などのように毎日行くものに対しても別に何もしゃべらないで、
「いらっしゃいまし。」とか、「おかえりなさいまし。」としか言わないほど、黙った子であった。ただかの女をとり立てて言えば、いつもこだわりない不断な、やさしい少女らしい微笑みをもっていたことであった。心から可笑しいということが無くとも、ただ、平和な、純潔な、持って生れたままの微笑であった。