ヴエスヴイオ山(ヴェスヴィオさん)

 ポンペイの街をやうやく見物してしまつて、ひる過ぎて入口のところの食店レストランで赤葡萄ぶだう酒を飲み、南伊太利イタリーむきの料理を食べて疲れた身心を休めてゐる。それから、此処ここで発掘した小さい瓶子へいしなどを並べて売るのをのぞくが、値が相当に高いので買ふ気にならない。
 そこに、数人の導者が来て、ヴエスヴイオ登山をすすめて止まない。此処から登山するとせば、驢馬ろばに乗つて行く、その方が登山鉄道で行くよりも賃銭も安く、遙々はるばる観光に来た旅人にとり興味あることであり、一つ一つの経験を印象するにはこれに越したことはないといふのである。
 向うには、ヴエスヴイオの山は半腹に白雲が動いて居り、頂が晴れて噴煙が立ちのぼつて居る。陰霽いんせい常なきこの山としては幸運な天気とつていい。それに、登山軌道の出来ない前には、旅人は皆、馬車に乗り、驢馬に乗り、山の頂近くなると徒歩し、難渋して登山したものである。ある記事には、闇黒あんこく松明たいまつの火を振り振り、導者らが、原始的な民謡を歌ひはじめることなどが書いてある。ある記事には、隠者の窟に年老いた隠者が繩の帯をしめて、旅客に食をさんし、酒を飲ませるところなどが書いてある。ゲーテなども、確か驢馬に乗つて葡萄圃ぶだうばたけの間あたりを縫ひながら、それからこけの生えた熔巌の上などを難渋して歩いたのであつただらうか。
 即興詩人には、『熔巌は月あかりにて見るべきものぞとて、我等は暮に至りてヱズヰオに登りぬ。レジナにてうさぎうまを雇ひ、葡萄圃ぶだうばたけ、貧しげなる農家など見つつり行くに、やうやくにして草木の勢衰へ、はては片端かたはになりたる小灌木、半ば枯れたる草の茎もあらずなりぬ。夜はいとあかけれど、強く寒き風はたちまち起りぬ。まさに没せんとする日はさかりなる火の如く、天をば黄金色わうごんしよくならしめ、海をば藍碧色らんぺきしよくならしめ、海の上なる群れる島嶼たうしよをば淡青たんせいなる雲にまがはせたり。まことれ一の夢幻界なり。湾に沿へる拿破里ナポリまちは次第に暮色微茫びばうの中に没せり。ひとみを放ちて遠く望めば、雪をいただけるアルピイの山脈こほりもて削り成せるが如し』かういふいい文章がある。
 僕はしばらく心が動き、かういふ名文章が胸中を往来し、暫くは驢馬の背上の人物として僕自身を空想するのであつたが、僕はおもひ直して、驢馬でポンペイからする登山を断念した。何向き僕は一人旅をして居るものである。単に詩的な気持から、軽率な冒険をしてはならぬと思つたのであつた。
 ポンペイから汽車に乗り、汽車に乗込んでゐるトマス・クツク会社の男からヴエスヴイオ登山軌道の切符を買つた。即ち驢馬で行くことを断念してレジナ駅から登山車に乗らうといふのである。
 レジナから乗込んだ外国の遊覧客は幾組かゐた。伊太利観光の季節からはづれてゐるのであるが、やはり僕のやうな旅人もゐないことはない。
 だんだん高くのぼるに従つて、眼界が広くなり、一望のうちに展開せられるナポリ湾をも引くるめた風光には、藍色の海水があり、堅固な色彩の村邑そんいふの家があり、寺院があり、丘陵があり、川の流がある。さうして強烈な午後の日光のもとに一種の光明を反映してゐる。それが少しも旅人の心を陰鬱にしない。登山車の車房の中で心持ゆられ気味になつてこの風光を眺めてゐることは一つの幸福と云はねばならぬ。
 そのうち草原、灌木帯が過ぎてしまつて、熔巌原に移行して行つたが、黒光したこの熔巌は幾里にもわたつてなだれ落ちてゐるので、旅人は車窓から首をのばして驚愕きやうがくしてそれを見て居る。この熔巌の原は既に冷えて沈厳の色であるが、未ださう年数を食はず、生々なまなまとしたところがある。恐らく西暦一九〇六年の時の噴火に際しての熔巌流だとおもふ。西暦一九〇六年には四月四日からひどい爆発があり四、五、六、七、八日あたりまで爆発が止まなかつた。この山は三百年来いつも活火山として常に大小の噴火があり、山の形貌けいばうも幾らかづつ変つてゐる。
 この山はずつと古い事は分からぬが、西暦六十三年に噴火し、その時には大地震をも伴つて、そのあたり一帯の都市を滅亡せしめてゐる。ついで西暦七十九年にも同様の噴火があつて、ヘルクラネウムとか、ポンペイとかは全く分からなくなつてしまつたのであり、爾来じらい第十六世紀から現在まで大きな噴火が五十回あつたやうに記録に残つてゐる。近くでは西暦一八七二年の噴火、それから西暦一九〇六年の噴火が大きいものであつた。滅亡したヘルクラネウムの上に建てられた市は今のレジナである。