日本に於ける支那学の使命(にほんにおけるしながくのしめい)

 こんどの支那事変が起ってからたれしも深く感ずることは、支那についての日本人の知識があまりにも足りなさすぎるということであろう。日本人が支那についての研究をあまりにも怠っていたということであろう。支那文字をつかうことがあまりにも好きであり、支那を含む意味で東洋ということを何につけてもいいたがる日本人が、その支那についての知識をあまりにもたなさすぎることが、こんどの事変によってよく知られたのではあるまいか。あるいはこれから後もますますよく知られてゆくのではあるまいか。しかし時局について語ることは、わたくしの職分を超えている。わたくしはただ、こういう状態には学問としての支那の研究、即ち支那学、が日本においてまだ十分に発達していないところにも理由があるということを述べ、そうしてそれと共に、支那学は単に目前の実際問題を解決するについて必要な知識を提供する責任があるにとどまらず、学術そのものとして大なる使命を有っていることを説きたいと思うのみである。
 ここに支那学というのは支那を研究する学術ということであるが、自然科学に属するものはそれに含ませない方がよかろうから、支那の文化を研究する学術と限定していうべきであろう。これまで日本にも支那に関する学問はあったので、それが漢学ともいわれていた。あるいは今もなおそれがあるといってもよかろう。漢というのは支那のことであるから、漢学という名はことばの上では支那学というのと同じであるが、われわれが今、漢学の名をすてて、ことさらに支那学という称呼を用いるには、理由がある。漢学は現代の学術の意義で支那を研究するのではなくして、支那のことを支那から学ぶのである。そうしてその学ぶことは、主として支那の文字とそれによって書かれた支那の古典とであって、思想的意義においてはその中心が儒学にある。一くちにいうと、漢学は儒学の一名であり漢学者は儒者であったといってもよいほどだからである。儒教の外の支那の思想を知ること、支那の古典的詩文をまねて作ることがそれに伴ってもいたが、よしそれにしても、支那の書物に記されていることを学び知り、すべてにおいてそれを手本としようとしたのが、いわゆる漢学である。さて、こういう儒学としての漢学を思想的側面から見ると、それが現代的の学術でないのは、教としての儒教を説くためのものだからである。儒教は教であるから完全なものとせられ、従ってそれに対しては批判が許されぬ。研究ということも教そのものを批判しない程度において許されるに過ぎないから、それは書物や文字の解釈などの末節においてのみ行われる。また教というものには必然的に伝統の権威と宗派的偏執とが伴い、その点からも自由な研究が妨げられる。あるいはまた儒教の歴史的発展を考えることが好まれず、儒教ならぬ思想のそれに入りこんでいることを認めたがらないのも、儒教は初から完全なものとして成立っていると見たいからである。なお教は完全なものでなければならぬから、何時いつの世にも適切なものとせられるが、その実、儒教は支那の昔の社会や政治の状態から生じたものであるから、日本の、また現代の、事情にはあてはまらぬ。けれども、あてはまらぬとしては教の権威がなくなるから、強いてそれをあてはめようとしてむりな附会をする。儒教は国家主義であるといったり、または儒教に国際道徳の思想があるような考えかたをしたりするのも、こういう昔の儒者の遺風であろう。儒教道徳は特定の関係のある個人と個人との間のものであって、集団生活に関するものはそれには全く存在せず、政治思想としては君主が如何いかにして民衆を服従させそれを駕御がぎょするかを説くのがその精神であって、現代的意義での国家という観念は全くない。また支那の帝王は全世界に君臨すべきものとせられている儒教に、現代の国際関係の如きことが予想せられていないことは、いうまでもない。だからこういうことをいうのは実は儒教そのものを歪曲わいきょくすることになる。儒教の術語を現代にあてはめようとするのも同じことであって、王道というような語を用いるのもそれである。儒教思想での王道と現代の国家とは根本的に矛盾した精神をもつものである。君主と民衆とを対立の地位に置き、そうして民衆の生活の全責任を君主に負わせるのが王道だからである。儒者はまた儒教の教としての権威をきずつけるような事実には全く目をふさぐ。儒教が支那の帝王やそれに隷属する知識人によって長い間支持せられて来たにかかわらず支那の政治がかつてよくなったことがないという明白な事実について、儒者は知らぬかおをしている。こういう儒者の学問が真の学術でないことは明かである。漢学の称呼をとらず支那学という名を用いるのは、これがためである。支那学は儒教をも研究の対象とするが、儒学とは違って自由な学術的見地からそれを解剖し分析し批判するのである。支那のあらゆる文化現象を研究するに同じ態度をとることは、勿論である。