年中行事覚書(ねんじゅうぎょうじおぼえがき)



 日本の年中行事ねんじゅうぎょうじが、近頃再び内外人の注意をひくようになったことは事実だが、その興味の中心というべきものが、これからどの方角へ向おうとしているのか、久しくこういう問題に携わっている者には、かえって見当をつけることがむつかしい。しかし少なくとも子供に言ってかせるように、これは昔からこうするものなのだと、説いただけでは話にもならぬし、またこのごろのジャーナリズムの如く、正月が来れば門松の由来、三月が来れば雛祭ひなまつりの根原などと、きまりきったことを毎年くりかえしていたのでは、観光団の通弁にはなっても、考える人の役には立たぬだろう。
 そこで私は一つの方針として、今まで私たちのまだ知らずにいたことが多いということと、誰もが気をつけて見ておこうとせぬうちに、消えてなくなろうとしている年中行事が、幾らもあるということを説くのに力を入れた。今ならばまだいろいろの事実は残っていて、なるほどそうだったということも出来るし、またどういうわけでこうなのだろうと、疑って見ることも出来る。共同の疑いがあれば、それに答えようとする研究者も必ず生まれるだろう。自分がまだはっきりと答えられないからといって、問題までをしまっておくのはよくないことだと思う。
 歳時習俗語彙さいじしゅうぞくごいという書物は、将来問題になりそうな年中行事の事実を、手の届く限り寄せ集めたもので、比較研究には都合のよい参考書だが、すでに絶版になって古本でも容易には手に入らない。どうかして早く増補改訂を加えた第二版を出したいと、民俗学研究所の人々は苦慮している。絵で説明がつくと、話はたしかに面白くまたわかりやすくなるのだが、それも季節があるために、よいものをたくさん集めて行くことはむつかしい。
 武田理学博士の農村年中行事には、結構な写真がたくさんに出ているが、ちょうどこの本とは反対に、主として正月中の慣習に力が入れてあるので、こちらへは借りて来ることが出来なかった。しかしあの本は精確な注意深い良い記述である。これもなかなか手に入りにくいこととは思うが、もし図書館か何かで読むことが出来たならば、諸君の年中行事に対する興味は、また一段と深まるであろう。

昭和三十年八月
柳田國男
[#改丁]






 年中行事ねんじゅうぎょうじという言葉は、千年も前から日本には行われているが、永い間には少しずつ、その心持がかわり、また私たちの知りたいと思うこともちがって来た。この点に最初から注意をしてかかると、話の面白みはいちだんと加わるのみならず、人とその生活を理解する力が、これによって次第に養われるであろう。史学が世間で騒ぐような、そんなめんどうな学問でないということを実験するためにも、これはちょうどころあいな、また楽しい問題ではないかと思う。
 今日お互いが知りたいという年中行事は、いつのころからまたどういうわけで、こうしたいろいろの常とかわった風俗が、毎年日を定めて日本には行われているのであろうか、ということが問題であるに反して、昔の年中行事の書いたものとなって残っているのは、たいていは一つの大きな家、または神社とか寺とかにおいて、必ずこれだけのことは守って続けて行かなければならぬということを、ただ忘れぬように書き留めておいたものである。まさかその日までを忘れてしまう者はあるまいが、人が多くまたたびたびかわるので、こうであったああであったということが、不確かになる場合がいくらもあり得る。折角の儀式がまちがえられては価値がないので、それを一つ書きに絵なり文字なりにして、永く残しておこうという人が前々からあったのである。
 近世の実例としては、遠州えんしゅうの高林という大農の家の年中行事が伝わっている。この研究所の近くでも、世田谷の大場という旧家の年中行事が、後に活版になったのでよく読まれている。こういうものを集めてみたら、まだ全国に何百というほどもあるだろうが、それは今日の年中行事の研究に、興味の深い参考品であるというに止まり、直接に私たちの知ろうとする答にはならない。さすが何百年の古い家だけあって、珍しいしきたりがあるということは感じられるが、それがことごとく多数普通の民家でも、かつて一度はみなそういうことをしていたのが、消えずにそこだけに残っているものと、見ることは出来ぬからである。
 今の多くの家庭の年中行事は、本や帳面に書いて伝えているものなどはほとんとない。従ってまちがえたり忘れたり、わざと改めたりめたりしたものが多く、ことに都会ではこの大きな戦争を機会に、あれほどたくさんあった春秋の楽しみが、半分以上は名前まで隠れてしまったが、気をつけて見ていると、これはまだ決して問題の終りではなかった。人が何かの折に寄り集まって、生まれ故郷の風物をかたり、または小さなころの思い出を話し合う場合に、いつでも最も多く話題に上るのは、祭礼でなければ、この年中行事のどれかの日の出来事であった。老若男女の分ちなく、誰でも少しずつこういう話には心を引かれ、また自分でも何か話をしてみたいような、なごやかな気持になって来るのも、理由のあることのように考えられる。