母の手毬歌(ははのてまりうた)

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この書を外国に在る人々に呈す


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 皆さんは村に入って、うちに静かに暮らしているような時間は無くなったけれども、その代りには今までまるで知らずにいた色々の珍らしいことを、見たり聞いたりする場合は多くなってきた。村には前々からの生活ぶりをよく覚えていて、親切に話をしてくれる人があるものである。そういう話の中には、いつまでも役に立ち、また、ながく楽しみになるものが多い。注意していてかえり、年をとった人々、また弟や妹たちにも御土産おみやげにしなければならない。その一つのお手本として、わたしがもう六十何年ものあいだ、忘れずにいたことを一つ書いて見よう。
 このごろの田舎いなかのお正月は、もうどういうふうに変っているか知らぬが、十年前までは女の子の初春のあそびには、羽根羽子板はねはごいた手毬てまりとがあった。この二つは、自分の手とからだとが思うように動くことを知る、初めての機会であるゆえに、たいていの子どもにはうれしくてめられず、大きくなってからも正月が来るたびに、いつも思い出すたのしい遊びであった。ゴム毬のゴムがなくなってしまったさびしさ、それを南洋の人々から、わざわざ送りとどけてもらったよろこびなどは、今でも忘れずにいる人がきっと多いことと思う。ところでその、ゴムというものの日本にあらわれたのは、明治の世の中もややのちになってからのことで、田舎ではみなさんのおかあさまぐらいの人までが、小さいころにはまだお正月に、木綿糸もめんいとを巻いてこしらえた手毬を突いていたのである。白い木綿糸を、まんまるに巻きあげ、その上をカガルといって、あか、青、黄、紫のあざやかな色の糸で、花や菱形ひしがたのうつくしい形に飾ったので、そのうつくしさを女のが愛していたために、ゴム毬になってからのちも、なおしばらくのあいだは、そのゴム毬の上をもとの糸かがりの通りに、いろどって塗ったものが流行していた。木綿糸の手毬も作って店で売っていたけれども、そういうのは中味が綿わたばかりで、糸は少ししか巻いてないので、つぶれやすくもあり、またちっともはずまなかった。女の児たちが自分で作った手毬は、できるかぎり巻きつける木綿糸を多くし、そのしんにはごく少しの綿をまるくして入れ、またよくはずむようにといって、りゅうひげのみどり色のをつつんだり、蜆貝しじみがいに小さな石などをつつみ入れて、かすかな音のするのを喜んだりしていた。手毬に巻く木綿糸などは、もちろん長いものを使うのではなかった。そのころはまだ、家々で木綿機もめんばたを織っていたので、その織糸おりいとはしの方の、もうどうしても布に織れない部分、ふつうにキリシネともハタシの糸ともいって、三、四寸は切ってのけるものをもらい集めて、それを一本ずつ丹念につないだものであった。一つの毬を巻きあげるにも、なかなか時間がかかった。母や祖母はその子のよろこぶ顔が見たさに、よその家のキリシネまでも無心をしてあるいたり、また手伝ったり指図さしずをしたりして、どこの家でも正月がくるまでに、二つか三つかの新らしい手毬ができていた。夜もこの新らしい手毬をまくらもとにおいて、もういくつ寝るとお正月と、指折ゆびおりかぞえていた子どもは多かったのである。


 手毬てまりがこのように美しいものになったのは、木綿機もめんばたが家々で織られるようになってからのちのことである。木綿もめんというものの我邦わがくにに知られたのは、相応に古いころからのことであったようだが、わたという作物さくもつを、諸処方々しょしょほうぼう田畠たはたにうえ、それから綿を取り糸をつむいで、だれでも木綿の着物を着るようになったのは、江戸時代も中頃から後のことで、それ以前には、冬も麻布あさぬのの衣服を着るのがふつうであった。麻糸はさらして真白まっしろにすることがむつかしく、また、木綿のようにあかや青のあざやかな色には染まらなかった上に、これで織った布が長くもつので、そうたびたびははたは立てなかった。そればかりか、この糸は木綿のようにふっくりとはしていないから、手毬に巻き掛けても今のゴム毬のようには、ついてよくはずまなかったのである。そのためでもあったろうか、ちょうどこの木綿糸を手毬に利用することが始まったころから、だんだんと手毬のあそびが変ってきた。近いころの手毬はつくといって、板の間とか土の上とかに打ちつけて、はねあがってくるのをまた打つという、いくらかの早い遊戯になって、それを上手につづけてつくおもしろさがまた一段と加わってきたのである。