銭形平次捕物控(ぜにがたへいじとりものひかえ)


「親分、あつしの身體が匂やしませんか」
 ガラツ八の八五郎が、入つて來ると、いきなり妙なことを言ふのです。
 九月のよく晴れた日の夕方、植木の世話も一段落で、錢形平次ぜにがたへいじしばらくの閑日月かんじつげつを、粉煙草をせゝりながら、享樂きやうらくして居る時でした。
「さてね、お前には腋臭わきがが無かつた筈だし、感心に汗臭くもないやうだ、臭いと言へばお互ひに貧乏臭いが――」
 平次は鼻をクン/\させながら、んな的の外れたことを言ふのです。
「嫌になるなア、そんな小汚い話ぢやなく、もつと良い匂ひがするでせう」
 八五郎は素袷すあはせの薄寒さうな懷ろなどを叩いて見せるのでした。
「あの娘の移り香を嗅がせようといふのか、そいつは殺生せつしやうだぜ、腹の滅つて居る時は、そんなのを嗅ぐと、虫がかぶつていけねえ」
「相變らず、口が惡いなア、そんなイヤな匂ひぢやありませんよ、お種人參たねにんじん忍冬にんどう茴香うゐきやうが匂はなきやならないわけなんだが」
「どこで、そんなものをクスねて來やがつたんだ」
「人聞きの惡いことを言はないで下さいよ。香ひの良い藥草を、一つ/\紙に包んで、綺麗な人から貰つたんですよ、それを紙入に入れて、内懷うちふところであつためてあるんだが――」
「そんなものなら、髷節まげぶしへ縛つて、鼻の先にブラ下げて歩くとよく匂ふぜ」
「叶はねえなア」
「ところで、それをくれた綺麗な人といふのは、何處の人間だえ」
「ザラの人間と一緒にするには、勿體もつたいない位、良い女でしたよ、親分」
「眼の色變へて乘出すのは穩やかぢや無いぜ、お前に藥草の葉つぱをくれるんだから、いづれ場末の生藥屋きぐすりや後家ごけか何か」
「錢形の親分も、それは大きな見込違ひですよ、後家やおんばあぢやありやしません、ピカ/\するやうな新造しんざう、つく/″\江戸は廣いと思ひましたよ、あんな良い娘が、世間の評判にもならずに、そつと隱れてゐるんだから」
「若くて眼鼻がそろつて居ると、皆んな良い女に見えるから、お前の鑑定かんていは當てにならない」
「でも、板橋の加賀樣お下屋敷しもやしき隣の御藥園の娘、お玉さんばかりは別ですよ、江戸中には隨分綺麗な娘もあるが、あんな後光ごくわうの射すやうなのはありやしません、大したものですぜ」
「そんな女は、女房や情婦いろには向かないぜ、惡いことを言はねえから、あんまり近寄らない方がいゝぜ」
「なぜです?」
「ピカ/\後光が射して見ねえ、まぶしくて口説くぜつもなるめえ」
 錢形平次と子分の八五郎は、斯う言つたらちも無い掛合噺かけあひばなしから、肝腎かんじんの話の筋を運んで行くのでした。
「まア、眞面目に聽いて下さいよ、親分。二三日前に、板橋の小峰凉庵こみねりやうあん先生のお藥園――百草園といふんですがね、そこから、友達傳ひに便りが來て、一度は錢形の親分に來て貰ひ度いが、いきなりさう言つてやつても、容易には來て下さるまいから、せめて一の子分の八五郎さんに瀬踏せぶみをして貰ひ度いといふ話で、瀧野川の御稻荷樣から辨天樣におまゐりする積りで、ちよいと寄道をして、覗いて來ましたがね」
 八五郎の話は漸く本題に入りました。
「で、辨天樣は板橋の百草園に引越して、お前に有難い藥草を下すつたといふ筋か」
「先をくゞつちやいけません、板橋の方は生きた辨天樣で、『ま、八五郎親分、よく來て下すつたわねエ』とにつこりした」
「とたんにお前はフラ/\になつた」


 その頃諸國の大名は、銘々めい/\の城下に御藥園を作らせ、一と通りの藥草を栽培さいばいさせたばかりでなく、兵粮丸ひやうらうぐわんなどを研究させ、萬一の場合に備へましたが、江戸はさすがに將軍家の膝元で、音羽、大塚、白山などに、宏大くわうだいなお藥園を設け、幕府は專門の本草學者に預けて、代々研究を重ねて居りました。
 ところが、この外にも、小規模ながら私設の藥園が各所に散在し、大名富豪の庇護ひごの下に、名ある本草學者などが、研究道場として、藥用の草根木皮を栽培し、珍木奇獸を集めて樂しんだ例は少くなく、百草園、菜園、百花園などの名が、はるか後まで遺つて居りました。
 板橋の百草園もその一つの例で、本草學者小峰凉庵が、加賀宰相の庇護を受けて板橋の下屋敷隣に地所を借り受け、門弟達とともに、藥草の研究に餘念も無かつたのですが、一年前園主凉庵は八十歳の高齡で他界し、後は門弟横井源太郎、打越金彌うちこしきんやの二人が、凉庵の忘れ形見でたつた一人殘された娘、――八五郎の所謂、生身いきみの辨天樣と言はれる、お玉をたすけて、園の經營を續けて居るのでした。