銭形平次捕物控(ぜにがたへいじとりものひかえ)


「親分、お早やう」
 飛込んで來たのは、お玉ヶ池の玉吉といふ中年者の下つ引でした。八五郎を少しけさせて、一とまはりボカしたやうな男、八五郎のんがい顏に比べると、半分位しか無い、まん圓な顏が特色的でした。
「玉吉兄哥あにいか、どうしたんだ、大層あわてゝ居るぢやないか」
 明神下の平次の家、障子の隙間からヌツと出したのは、その八五郎の長んがいあごだつたのです。
「錢形の親分は?」
 お玉ヶ池の玉吉は、氣拔けがしたやうに、ぼんやり立つて居ります。
「留守だよ、笹野さゝの樣のお供で、急の京上りだ」
 與力筆頭笹野新三郎は、公用で急に京都へ行くことになり、名指しで錢形平次をつれて行つたのは、つい二、三日前のことだつたのです。
「そいつは弱つたな、歸りは?」
「早くて一と月先、遲くなれば來月の末だとよ、その間俺の叔母は、此處へ留守番に泊り込みだから、叔母の家に厄介になつて居る俺は、日に三度店屋物てんやものを取るわけに行かねえ、口だけは此處へ預けて、向う柳原やなぎはらから通つて居る始末さ」
「弱つたなア」
「何を弱つて居るんだ、錢形の親分の留守中は、はゞかり乍ら俺は城代家老さ、困ることがあるなら遠慮なく言ふが宜い、金が欲しいなら欲しいと――」
 大きなことを言つて、八五郎はそつと懷中を押へました。その中にある大一番の紙入には、穴のあいたのが少々入つてゐるだけだつたのです。
「そんな話ぢやないよ、矢の倉で殺しがあつたんだぜ、八五郎兄哥」
「そいつは大變ぢやないか、錢形の親分程には行かないが、大概たいがいのことは俺で裁ける積りだ。さア、案内してくれ」
「さうかなア、大丈夫かなア」
 玉吉はひどく覺束ながりますが、八五郎では嫌とも言ひ兼ねて、ヒヨコヒヨコと先に立ちます。
「大丈夫かなアは心細いぜ、おい、玉吉兄哥、斯う見えたつて、錢形平次の片腕と言はれた、小判形の八五郎だ」
 胸をドンと叩きますが、くたびれた單衣の裾を端折ると、叔母が丹精してつぎを當てた、淺葱あさぎの股引がハミ出して、あまり威勢の良い恰好ではありません。
 事件のあつたのは、矢の倉の稻葉いなば屋勘十郎。
「内儀のお角が、昨夜風呂場で、障子越しに刺され、その場で息を引取つたよ」
 道々お玉ヶ池の玉吉は説明してくれました。稻葉屋勘十郎といふのは、何處から流れて來たともわからぬ浪人者で、稻葉屋に用心棒代りの居候で入り込んで居るうち、主人が死ぬとその儘ズルズルと後家のお角の婿になり、僅か四、五年の間に、日本橋から神田へかけても、指折りの良い顏になつた男でした。
「すると内儀は、金のうらみでなきア、色戀沙汰ぢやないか」
「金の怨なら、主人の勘十郎がやられる筈さ、殺された内儀は、三十八の大あばたで、色戀とは縁が遠いぜ」
「兎も角も、現場を見ての上だ」
 二人は矢の倉の稻葉屋へ着いたのは晝少し前、見廻り同心が町役人を立ち會はせて、檢死が濟んだばかりといふ時でした。
「向柳原の八五郎親分? それは御苦勞、錢形の親分は留守だつてね」
 主人の勘十郎ははなはだ無愛想でした。平次の留守を何處で聽いたか、兎も角も、八五郎風情が來たのでは、と言つた語氣が、妙に皮肉に聽えます。
 年の頃、四十二、三、面ずれも竹刀しなひだこもある立派な男で、稻葉屋の身上しんしやうのお蔭であつたにしても、僅かの間に町人達に立てられて、立派に顏のきける男になつたのも無理のないことでした。押出しも辯舌もまことに申分のない旦那衆です。
「兎も角も、見せて貰ひませう」
 八五郎は思はず肩肘かたひぢを張りました。
「あ、宜いとも、どうぞ、此方へ」
 主人勘十郎は先に立つて案内します。
 佛樣は階下の南向八疊に、近所の衆や親類の人達に護られて、しめやかに納棺を待つて居り、八五郎と玉吉の姿を見ると、人々は言ひ合はせたやうに席を開きました。
 死骸は、評判の通り四十近いみにくい女――と言つても眼鼻立が惡いのではなく、松皮疱瘡まつかわはうさうで見る影もなくなつて居り、その上横肥りのちんちくりんでまことに散々です。
 傷は後ろから肩胛骨かひがらぼねの下を一と突き、餘程狙ひ定めたものでせう。


 やがて八五郎は、主人の案内で、風呂場を見せて貰ひました。町家に内湯は珍らしかつた頃で、さすがに稻葉屋の豪勢さですが、それでも形ばかりの狹いもので、鐵砲風呂を据ゑると、あとは三尺の狹い流し、少し身體を動かすと、格子窓の油障子あぶらしやうじに背中が觸ります。
「この障子に、身體の影の映つたところを、外から一と突きにやられたものらしい、中は灯が點いて居たから、見當に間違ひは無かつた筈だ」
 勘十郎は油障子を指すのです。成程さう言へば、一箇所刀を突つ込んだらしい穴があいて、穴のあたりに、血の飛沫ひぶいてゐるのも無氣味です。