みだれ髪(昭和8年)(みだれがみ(しょうわはちねん))

臙脂紫
1,夜の帳(ちゃう)に,ささめきあまき,星の今を,下界(げかい)の人の,鬢のほつれよ
2,歌にきけな,誰れ野の花に,紅き否(いな)む,おもむきあるかな,春(はる)罪もつ子
3,髮(かみ)五尺,ときなば水に,やはらかき,少女(をとめ)ごころは,祕めて放たじ
4,血ぞもゆる,かさんひと夜の,夢のやど,春を行く人,神おとしめな
5,椿それも,梅もさなりき,白かりき,わが罪問はぬ,色(いろ)桃(もも)に見る
6,その子二十(はたち),櫛にながるる,黒髮の,おごりの春の,うつくしきかな
7,堂の鐘の,ひくきゆふべを,前髮の,桃のつぼみに,經(きゃう)たまへ君
9,臙脂色(えんじいろ)は,誰にかたらん,血のゆらぎ,春のおもひの,さかりの命(いのち)
,紀(き)の海(うみ)を,ひがしへわしる,黒潮(くろしほ)に,得(え)たるおもひの,名(な)に假(か)りし戀(こひ)
12,まゐる酒に,灯(ひ)あかき宵を,歌たまへ,女(をんな)はらから,牡丹に名なき
14,水に寝し,嵯峨の大堰(おほゐ)の,ひと夜神,絽蚊帳(ろがや)の裾の,歌ひめたまへ
15,春の國,戀の御國の,あさぼらけ,しるきは髮か,梅花(ばいくゎ)のあぶら
16,今はゆかん,さらばと云ひし,夜の神の,御裾(みすそ)さはりて,わが髮ぬれぬ
17,細きわが,うなじにあまる,御手(みて)のべて,ささへたまへな,歸る夜の神
18,清水(きよみづ)へ,祇園(ぎをん)をよぎる,さくら月夜,こよひ逢ふ人,みなうつくしき
19,秋の神の,御衣(みけし)より曳く,白き虹,ものおもふ子の,額(ひたひ)に消えぬ
20,經(きゃう)はにがし,春のゆふべを,奧の院の,二十五菩薩,歌うけたまへ
21,山ごもり,かくてあれなの,みをしへよ,紅(べに)つくるころ,桃の花さかん
23,雲ぞ青き,來(こ)し夏姫(なつひめ)の,朝の髮,うつくしいかな,水に流るる
24,夜の神の,朝乘り歸る,馬とらへ,ちさき枕の,したにかくさむ
25,みぎは來る,牛かひ男,歌あれな,秋のみづうみ,あまりさびしき
26,やは肌の,あつき血汐に,觸れも見で,さびしからずや,道を説く君
29,人かへさず,暮れゆく春の,宵ごこち,小琴(をごと)にもたす,亂れたる髮
30,たまくらに,鬢のひとすぢ,きれし音(ね)を,小琴(をごと)と聞きし,春の夜の夢
31,春雨に,ぬれて君こし,草の門(かど)よ,おもはれ顏の,海棠のゆふべ
32,小草(をぐさ)いひぬ,「醉へる涙の,色にさかん,それまで斯くて,覺めざれな少女(をとめ)」
33,牧場いでて,南にはしる,水ながし,さても緑の,野にふさふ君
34,春よ老ゆな,藤によりたる,夜(よ)の舞殿(まひどの),ゐならぶ子らよ,とこしへ老ゆな
35,雨見ゆる,うき葉しら蓮(はす),繪師の君に,傘まゐらする,七尺の船
36,御相(みさう)いとど,したしみやすき,なつかしき,若葉木立(わかばこだち)の,中(なか)の蘆舍那佛(るしゃなぶつ)
37,さて責むな,高きにのぼり,君みずや,紅(あけ)の涙の,永劫(えうごう)のあと
39,ゆあみする,泉の底の,小百合花(さゆりはな),二十(はたち)の夏を,うつくしと見ぬ
40,みだれごこち,まどひごごちぞ,頻なる,百合ふむ神に,乳おほひあへず
41,くれなゐの,薔薇のかさねの,脣に,靈の香の無き,歌載せますな
42,旅のやど,水に端居(はしゐ)の,僧の君を,いみじと泣きぬ,夏の夜の月
43,春の夜の,闇(やみ)の中(なか)くる,あまき風,しばしかの子が,髮に吹かざれ
44,水に飢ゑて,森をさまよふ,小羊の,そのまなざしに,似たらずや君
45,誰ぞ夕(ゆふべ),ひがし生駒(いこま)の,山の上の,まよひの雲に,この子うらなへ
47,額(ぬか)ごしに,曉(あけ)の月みる,加茂川の,淺水(あさみづ)いろの,みだれ藻染(もそめ)よ
,敷居(しきゐ)ごしに,筆(ふで)とりまつる,朝(あさ)のうた,草(さう)のみだれよ,なめしかしこし
49,なほゆるせ,御國遠くば,夜(よ)の御神(みかみ),紅盃船(べにざらふね)に,送りまつらん
50,狂ひの子,われに焔(ほのほ)の,翅(はね)かろき,百三十里,あわただしの旅
51,今ここに,かへりみすれば,わがなさけ,闇をおそれぬ,めしひに似たり
52,うつくしき,命を惜しと,神の云ひぬ,願ひのそれは,果してし今
53,わかき小指(こゆび),胡紛(ごふん)をとくに,まどひあり,夕ぐれ寒き,木蓮の花
54,ゆるされし,朝よそほひの,しばらくを,君に歌へな,山の鴬
,むらさきに,小草(をぐさ)が上へ,影おちぬ,野の春かぜに,髮けづる朝
59,繪日傘を,かなたの岸の,草に投げ,わたる小川よ,春の水ぬるき
63,ひと枝の,野の梅をらば,足りぬべし,これかりそめの,かりそめの別れ