みだれ髪(昭和8年)(みだれがみ(しょうわはちねん))

64,鴬は,君が夢よと,もどきながら,緑のとばり,そとかかげ見る
65,紫の,紅の滴(したた)り,花に落ちて,成りしかひなの,夢うたがふな
66,ほととぎす,嵯峨へは一里,京へ三里,水の清瀧(きよたき),夜の明けやすき
,誰れかよく,こことろかんと,相笑(あひゑ)みぬ,君がかきし畫,わが染めし歌
72,くれの春,隣すむ畫師(ゑし),うつくしき,今朝(けさ)山吹に,聲わかかりし
73,郷人(さとびと)に,となり邸(やしき)の,しら藤の,花はとのみに,問ひもかねたる
75,なにとなく,君に待たるる,ここちして,出でし花野の,夕月夜かな
76,おばしまに,おもひはてなき,身をもたせ,小萩をわたる,秋の風見る
77,ゆあみして,泉を出でし,やははだに,觸るるは苦し,人の世のきぬ
79,うすものの,二尺のたもと,すべりおちて,螢ながるる,夜風(よかぜ)の青き
80,戀ならぬ,寢ざめたたずむ,野のひろさ,名なし小川の,うつくしき夏
81,このおもひ,何とならんの,まどひもちし,その昨日(きのふ)すら,さびしかりきな
82,おり立ちて,うつつなき身の,牡丹見ぬ,そぞろや夜を,蝶の寢にこし
83,その涙,のごふえにしは,持たざりき,さびしの水に,見し二十日月(はつかづき)
84,水十里,ゆふべの船を,あだにやりて,柳に倚る子,ぬかうつくしき
86,小傘(をがさ)して,朝の水くみ,我とこそ,穗麥あをあを,小雨(こさめ)ふる里
87,おとに立ちて,小川をのぞく,乳母が窓,小雨(こさめ)のなかに,山吹のちる
88,戀か血か,牡丹に盡きし,春のおもひ,とのゐの宵の,ひとり歌なき
89,長き歌を,牡丹に強ふる,宵の殿,妻となる身の,我れぬけ出でし
90,春三月(.みつき),柱(ぢ)おかぬ琴に,音たてぬ,ふれしそぞろの,宵の亂れ髮
91,いづこまで,君は歸ると,ゆふべ野に,わが袖ひきぬ,翅(はね)ある童(わらは)
92,ゆふぐれの,戸に倚り君が,うたふ歌,「うき里去りて,徃きて歸らじ」
93,さびしさに,百二十里を,そぞろ來ぬと,云ふ人あらば,如何ならんわれ
94,君が歌に,袖ぬれし子を,誰れと知る,浪速の宿は,秋寒かりき
95,その日より,魂にわかれし,我れむくろ,美くしと見ば,人にとぶらへ
96,今の我に,歌のありやを,問ふなかれ,柱(ぢ)なき纖絃(ほそいと),これ二十五絃(げん)
97,神のさだめ,命のひびき,終(つひ)の我世,琴(こと)に斧(をの)うつ,音ききたまへ
蓮の花船
99,漕ぎかへる,夕船(ゆふぶね)おそき,僧の君,紅蓮(ぐれん)や多き,しら蓮や多き
100,あづまやに,水のおと聽く,藤の蔭,はづし給ふな,假りの御枕(みまくら)
101,御袖(みそで)ならず,御髮(みぐし)のたけと,きこえたり,七尺いづれ,しら藤の花
102,夏花の,すがたは細き,くれなゐに,今日も生きんと,思ふ戀人
104,とき髮を,若枝(わかえ)にからむ,風ありて,二尺に足らず,うつくしき虹
105,うながされ,汀(みぎは)の闇(やみ)に,車おりぬ,ほの紫の,反橋(そりはし)の藤(ふぢ)
106,われとなく,梭(をさ)の手とめし,門(かど)の唄,姉がゑまひの,うらはづかしき
107,ゆあがりの,みじまひなりて,姿見に,笑みし昨日(きのふ)の,無きにしもあらず
108,人まへを,袂すべりし,きぬでまり,知らずと云ひて,かかへて逃げぬ
109,ひとつ篋(はこ)に,ひひなをさめて,蓋とぢて,何となき息(いき),桃にはばかる
110,ほの見しは,奈良のはづれの,夏の宿,うすまゆずみの,なつかしかりき
111,紅(あけ)に名の,知らぬ花さく,野の小道(こみち),いそぎたまふな,小傘(をがさ)の一人(ひとり)
112,くだり船,昨夜(よべ)月かげに,歌書きし,御堂(みどう)の壁も,見えずなりゆく
113,師の君の,目を病みませる,庵(いほ)の庭へ,うつしまゐらす,白菊の花
114,文字ほそく,君が歌ひとつ,染めつけぬ,玉蟲(たまむし)ひめし,小筥(こばこ)の蓋(ふた)に
115,ゆふぐれを,篭へ鳥よぶ,いもうとの,爪先(つまさき)ぬらす,海棠の雨
,木下闇(こしたやみ),わか葉の露か,身にしみて,しづくかかりぬ,ふたり執る手(て)に
119,のろひ歌,かきかさねたる,反古(ほご)とりて,黒き胡蝶を,おさへぬるかな
121,笛の音に,法華經うつす,手をとどめ,ひそめし眉よ,まだうらわかき
122,白檀(びゃくだん)の,けむりこなたへ,絶えずあふる,にくき扇を,うばひぬるかな
123,母なるが,枕經(まくらぎゃう)よむ,かたはらの,ちひさき足を,うつくしと見き
124,わが歌に,瞳(ひとみ)のいろを,うるましし,その君去りて,十日たちにけり
125,かたみぞと,風なつかしき,小扇の,かなめあやふく,なりにけるかな