楽聖物語(がくせいものがたり)


 私は、私の流儀に従って、日頃ひごろ尊敬する大音楽家の列伝を書いた。それは、あくまでも私の生活を通して見た大作曲家で、私の抱懐ほうかいする尊崇と、愛着と、驚嘆きょうたんと、そして時には少しばかりの批判とを、なんのおおうところもなく、思うがままに書き連ねたものである。
 私はかつて考証のために書かなかった。事実の羅列られつのためにも書かなかったつもりである。私は大音楽家達に対する心持を、散文詩のように、少しばかりの陶酔と、詠嘆えいたんをさえ交えて書いた。それは六十歳の青年の、せめてもの情熱であり、科学や芸術に対して日本人の持つ若さの表現であるかも知れない。
 大音楽家の伝記というのは、はなはだ少なくないが、誰にでも――音楽に関心も趣味も知識もない人にでも訴えて、その作物に興味を持たせ得る啓蒙的な伝記は甚だ多くない。私の狙いはそこであった。それから、もう一つの望みは、一般青年のために、日頃関心を持った作曲家の伝記を通して、私のささやかな人生観と芸術論を説きたかったのである。
 この記述の第一の目的は、読んで感銘の深いものであり、面白いものであるべきであった。その目的さえ果せば、読者諸君は次の段階に進んで、それぞれの大音楽家の詳伝を読まれ、その芸術に対する理解を深められることであろう。
 芸術は畢竟ひっきょう作者その人である。個性なくして芸術はあり得ず、創作者その人を知らずして作品の真髄を把握はあくすることは甚だむつかしい。本書を青年子弟のために書いた所以ゆえんである。
 この稿のうち十二篇の伝記は、婦人公論に記載したもので、他の五篇は新たに書き加えたものである。作品及びレコードに関する厖大ぼうだいな記述と、別伝数十ページことごとく書き下しで、そのために私はひと夏五十余日を費さなければならなかった。レコードは代表作の優秀盤きわめて少数に限定して、極力網羅もうら主義を避けた。全部のレコードを書くのは、読者の選択の困難を増すばかりで、全く書かないと同じ結果になりはしないかと恐れたためである。母型や材料の輸入難を考え合せると今日のレコード選択標準は、向年五年、十年、あるいは十数年間は大した変化のないことと思う。今度ほど私はレコード選択について、安らかな心持で書いたことはない。
昭和十六年九月末日
あらえびす記
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戦闘の人ヘンデル



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「お前の一番好きな作曲家は?」と聞かれたら、私はなんの躊躇ちゅうちょもなく「ヘンデルとそしてシューベルト」とこたえるだろう。
「お前の一番大事なレコードは何か?」と言われたら、ヘンデルの「救世主メシア」全曲十八枚をげることも間違いはあるまい。現に最近成城から高井戸へ引越した私は、一万枚以上のレコードの収集を、何の不安もなくトラックに積んで送り出したにかかわらず、ビーチャムきょうの指揮する「救世主」十八枚のレコードは、二つの箱に納め、私の腕に抱えて、旧居から新宅へと運んだくらいである。
 このレコードに対して、私にはきわめて個人的な思い出があり、何物にも代えがたい心持ちになっているが、それにしても、ヘンデルの人間とヘンデルの音楽に、私の興味と愛着を誘うものがなければ、「救世主メシア」のレコードに対して、これほどまでの執着は感じなかったことであろう。
 ヘンデルは古典作曲家中の巨峰である。バッハが「西洋音楽の父」であるならば、ヘンデルは「西洋音楽の母」でなければならない。この二人は偶然同じ年に生まれ、バッハの音楽が理知的で対位法的であるのに対して、ヘンデルの音楽が感情的で旋律的であることが、まことに面白い対照でもあったのである。バッハはこの上もなく尊い。が、ヘンデルがなかったならば、我らの持っている音楽の国のさびしさはどれほどであろう。私は論議することをやめて、しばらく情熱漢ヘンデルの伝記を通じて、その人間味を見ようと思う。


 ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(Georg Friedrich H※(ダイエレシス付きA小文字)ndel)は一六八五年二月二十三日、富裕な理髪兼外科医の二番目の子として、ハルレの町に生まれた。
 ヘンデルの音楽的才能と音楽愛は、多くの天才と同じように幼年時代から目覚めたが、父親は愛児が音楽を職業として選ぶことを好まず、音楽に携わること、楽器をもてあそぶことを厳禁してしまった。音楽を奪われた少年ヘンデルが、夜な夜な屋根裏の物置の中に通い、月の光をたよりに、そこに隠されたクラヴィコードを弾いて勉強したという逸話は、泰西たいせい名画の題材として、記憶している人も少なくはあるまい。
 七歳のとき、ワイセンフェルス公爵の御前でオルガンをき、公の御感ぎょかんに入って、公爵自身ヘンデルの父に、息子の音楽修業を承諾させたという話もある。十一歳のとき父を失ってからは、父の望みの法律研究を捨てるに忍びず、一たびハルレ大学の法律部に籍を置いたが、十七歳のときついに法律を捨てて教会のオルガン弾きの地位に納まり、やがて本格的な音楽修業を思い立って、ドイツオペラの都ハンブルクに、彼自身の姿を見出したのは、あくる十八歳の春であった。穏やかな長面ながおもて、大きな真面目な眼、直な鼻、豊かな額、厚いが強い唇、ほおあごはがっしりと端正で、四角帽をかぶった彼の風采ふうさいを、時の人は「力に富み、意志に強かった」と伝えている。