美しい日本の歴史(うつくしいにほんのれきし)

 異見会とは、つまり談合会で、今でいう委員会とか何々会議のつもりであろう。だがそう難しくせず、黒田藩では「腹立てずの夜咄よばなし会」ともいっていた。
 如水じょすいの子、長政が始めたことらしい。
 月々一、二回、家中の各部門から重な者七、八名が、集まって(交代制で、軽輩の加入も許されている)長政を中心に、いろんな註文を出したり懸案を話し合うのである。もちろん日頃胸につかえている不平、忠告、疑問、何でも持ち出して討議しあう事になっていたという。だからこの異見会には、かたい会規が前提になっていた。
 この場のこと、すべて政道施策の最良の一を選ぶに帰一して、いかなる言にも、決して腹立て申すまじき事。また、後々も意趣に残すまじき事。更には、秘すべきは、これを他言いたすまじき事。
 以上が、誓言の要だった。これは愉快な会だったらしく、家中の士も異見会といえば、愉しみにしたそうである。特に長政などは、人々の苦言に触れると、つい大名心理が出て、気色ばんだり不機嫌になったりするので、そんな時は、
『では、会主ご自身、会の清規をお破りになられますか』と、満座の者から痛いところを抑さえられたりして、
『いやいや、つい言葉は激したが、心では何もいかッてなどはいない』
 と、苦しげに顔を和げるような例も一再でなかったそうだ。
 黒田家の治績と藩風が大いに挙がったのは、この異見会の功が大きかったといわれている。長政もそれを認めていたとみえて、死の前には、
「異見会の儀は、年来われわれが致し来りし通り、月毎、かならず城内の釈迦しゃかにて、催し候ふべし」と子息忠之ただゆきへの遺言状のうちにも言い忘れていなかった。これがほんとの“黒田ぶし”と、言っては洒落にもならないが――。
 そこでこんな封建の主従談合から、何か答えを引き出そうなんて無理を私も考えてみたわけでもない。唯、近ごろ多い小型争議の膠着を見るにつけても、また大きくは、こんな大騒ぎをして選挙をやったあげくの後の近代会議制を見ても、なんと人間喪失のはなはだしい仕組みになったものかと嘆じられるだけなのだ。そして人間と人間同士が仲よく話合えた故郷の座が、ときにはふと恋しくもなってくる。
(昭和三十四年)