美しい日本の歴史(うつくしいにほんのれきし)

『いや調べてみたら、まんざら嘘じゃなかったんですな。しかし、附近の農家などから訊いた所を綜合してみると、いやおかしいの何のッて』
 と、ここでげらげら笑い出して、かねて半信半疑だった私の疑問に、こう結論をつけてくれた。
『いったい人員は、何十人だったのか知れませんが、確かに最初の結束だけはどうやら一本気の本物だったらしいんです。調べたところ、穴の中には武器やら何やら持ち込まれてありましたから。ところがですね。砂糖、油、カンパン、煙草といったような物は、もうあとかたもありませんわ。いちどは慨然と殉国を誓った結束組も、別れてみると、やはり穴ぐらの物資というやつがお互いの心配になり気懸りで仕方がない。そこでこッそり単独で穴ぐらを覗きに行ってみると、果たせるかな、もう先に来たやつが砂糖や煙草に手をつけて、はッきりと減っている。すると自分も馬鹿正直が馬鹿らしくなって持って帰る。といった按配に、毛布からガソリンまでいつかしらお互いにコソコソ持ち去ってしまったもんですな。それやあ、農家もくすねたかもしれませんがね。なにしろ極めて自然にかたづいておりますよ。ええ、赤サビの機関銃などは、進駐軍をつれていって、その後われわれの方で処分しましたがね』[#「処分しましたがね』」は底本では「処分しましたがね」」]


 こんど東宮の御新居となる青山御所の正門寄りの鮫ヶ橋に、以前、お歌所の千葉胤明たねあき翁が住んでおられた。
 千葉さんも戦時中、私とおなじ奥多摩の福生ふっさに一時疎開され、そこでついに亡くなられたが、戦前から私も赤坂表町にいたので、早朝の散歩のついでには、よく私の家の縁先へ寄っては、番茶などすすりながら一ト話ししてゆくことがままあった。
 千葉さんは典型的な宮中の、つまり寄人よりゅうどらしい風骨の歌人であった。明治から三代の天皇につかえたというのが何よりのご自慢である。
 わけて明治天皇のはなしというと時をわすれてはなしこまれる風だった。私も興のままに伺っては、ついその場かぎりで忘れてしまった事の方が多いけれど、忘れえない幾つかの話もある。
 天皇が指揮官として整列を命じられるときというと、極っていつも容易に兵列が揃わない。とかく凸凹がちになる。で陛下は、いちいち側へ行って、その兵の姿勢を直される。
 どうも変だ変だと、ほかの武官たちが首をひねッているうちに、やっとその原因が判明した。兵隊たちの意識的な現象だった。故意に分らないほどずつ、列から出たり引っ込んだりしていた兵が少なからずあったらしい。すると天皇がツカツカ進んでいってその兵の姿勢をただす。つまり兵隊たちは天皇のお手に触って貰いたかったものなのである。


 ある朝、千葉さんが私へ言った。『吉川君、東京じゅうで、電燈がいちばん遅くいた所は、どこだか知ってる?』『さあ。いずれ場末でしょうか』『いや、もう東京全市にランプなど見られなくなっていたのに、まだ何年も蝋燭でいた所があるんだ。皇居ですよ。皇居といっても、宮内省にはの一番に電燈も布設されていたが、明治天皇のご起居なすっていた一郭だけが、いつまでも京都御所以来のままな古風な百目蝋燭でお過しでしたよ』
 これが千葉さんの前おきである。そして、話の骨子は、相手の私から『なぜ?』と訊いて貰いたいらしかった。
 文明開化の恩恵として電燈ほど利便あきらかなものはない。なのに明治天皇のお座所を中心とする諸殿しょでんだけは、宮内省やほかの官衙かんががすべて電燈化されても『電気にしていい』というお許しがないのだった。
『陛下はやはり古風がお好きなのかもしれない』
 宮内当局は内々こうも考えてみた。しかしほかの事では洋風化も決してお嫌いな様子ではない。いや進取の御気風は積極的な方ですらあった。で、折あるごとに、大官たちは電燈のこころよさ、火災の危険もないことなど、それとなくお耳に入れてみては、そこで『いかがでしょう、御便殿なども』と触れてみるが、陛下は『まあよい、まあよい』で、いつか二年余も経ってしまった。
 すると宮内官吏の或る者が、自分のふと気づいた儘を、上司へそっと告げてみた。それは陛下のお座所から諸殿の廊下にまでともされる毎晩の百目蝋燭は一本百匁以上もある大きな物であり数も相当な消費になるが、やがて陛下がご寝所にお入りになると、むかしで言う舎人とねりのような下級宮内官吏が、蝋燭バサミと黒塗りの鑵のような物を提げて、その一本一本のとぼし残りをふッと吹いては鑵に入れて消して廻る。
 そこでこの蝋燭屑が、毎晩のことなので、一年には相当な量になる。しかしこれは半年毎に、宮内省御用達の蝋燭屋が、裏門からそっと引き取って行って、代りにこの蝋屑の“お蝋代”なる金一封が、その係りの袖の下へ内々渡されるという多年のしきたりになっている。それから又、このささやかなるお蝋代の分配にあずかって、彼ら薄給仲間のお座所廻りの小官吏たちは、年末ならそれを家庭の餅代に当てたり、中元ならお盆の用途や女房子のために浴衣の一枚ずつも買ってやったりしていたのである。