美しい日本の歴史(うつくしいにほんのれきし)

『どうも、なにも仰っしゃらないけれど、陛下はちゃんとそれを御存知なのじゃないでしょうか。どう考えても、ほかに陛下が電燈嫌いなわけは思い当りませんし、それにお座所まわりの下級官吏たちの給料は、物価はずいぶん上って来ているのに、いぜん昔の儘ですから』
 こう聞いたので、上司がさっそく調べさせてみると、じっさい彼らの薄給はひどかった。で、その年度の代りに、物価とやや均衡のとれた昇給を行って、それからまた折を見て、陛下に伺いを出してみた。
『いかがでしょうか。吹上からごらんになってもお分りでございましょうが、東京全市すべて夜々あのとおりな電燈の灯の海です。ここのお座所もひとつ電燈になされましては』
 すると、今度はすぐ頷かれたとの事である。
『いいだろう、電燈は結構だ、ひくがいい』
 やはり陛下はおそばの下級官吏たちの薄給と蝋燭屑との不可分な関係を知っておられたのだった。電燈をひけばその年の盆暮から彼らの生計の切廻しがつくまいと案じられていたし、そうかといって、そういう宮内行政の末梢におくちばしを出すのも控えられて、結局、数年のご不自由をしのんでおられたものとみえる。
 私は千葉胤明翁から聞いたこの番茶ばなしを、いつも夜の三宅坂あたりでは、つい思い出すのだった。あの辺から見る日比谷、数寄屋橋、銀座へかけての近年の夜景などは、いかにそんな話などは早や古くさいかをわらっている不夜の虹のようなものだ。しかしすぐ横の暗い静かなお濠の水は、明治の水とも余り変ってはいない。私は錯覚することがある。日本の縮図といってしまえばそれまでだが、考えてみると、東京ッてじつに不思議な風景を両極に持って、しかもそれの調和で保っている構造らしい。何よりもバランスが難かしそうだ。


 夕刊一面の各紙の寸鉄欄(たとえば朝日の素粒子、毎日の近事片々、読売のよみうり寸評、産経の夕拾など)などそれぞれ独自な筆鋒で諷刺と諧謔のうちに快感のある論調をみせているが、とくに毎日の近事片々には、折々、痛烈なこと対者の陣に声なからしむるような筆風がある。もう先月のことにはなるが
高利貸森脇将光が政局の中心と
なる。結構な国の、結構な政治。
 とやったなど、一例といってよい。とかく汚職というような活字も一般観念からして何か麻痺状を呈しているようだが、こう書かれると今さらのごとく現代の奇怪な国会風景に肌を寒うせずにいられなくなる。
 誰かが『現代は、いくら内閣が代っても、結局、田沼内閣になっちまう』と言っていたが、この言葉にも半分の真理は観ていい。もちろん収賄はその破廉恥さや利官意識からいっても、二重三重な罪悪だが、同様に、それをさせる贈賄の風潮にも、もっと厳しい社会悪としての蔑視と糾弾をお互いに持ち合わなければ駄目なんじゃないかしら。どうも収賄の淫婦を責めるに急で、贈賄者の方の間男は、これを逃がしもしていないが、とかく軽く見ている風が今の世間には無くもない。
 賄賂というとよく寛政年度の田沼意次おきつぐが例に出されるが、うところの田沼時代でも、そんな時代を作った罪の一半は、意次の幕閣をめぐる猟官連中だの、一般の民間側にもあったのだと言いたくなる。一体、どの程度、田沼という男が無知で強欲だったかしらないが「匏庵ほうあん遺稿」「甲子夜話」「五月雨双子」など、彼の収賄ばなしには、みなおもしろがってその醜聞を千載に書き遺している。
 大老の井伊直幸なおゆきでさえ、大老の職をえたのは、彼へ贈賄したお蔭だと、もっぱら言われた。そしてその贈り物には、四方の盤上に載せた金銀細工の田舎家の盆景が送られた。その敷き砂まで砂金や豆銀であったという。
 また、月見の夕。青竹の籠にきすと野菜をあしらった物を、台所へ送り届けた町人がある。一見、軽い音物いんもつのようだったが、その中の青柚子ゆず一箇に刺してあった小刀を抜いてみたら、当時千金とも評価されていた名工後藤の秋草彫りの小づかだった。
 さらに田沼が下屋敷を新築した時、その稲荷堀の下屋敷の庭を見ながら、ある朝、彼が、
『あの池には、鯉がいてもいいな』
 と、独り呟いた。
 そして夕刻、何気なく下城して帰ってみると、邸内いたる所に鯉を入れた桶やふねがおいてあって、
『なんとした事やら、今日一日中、諸家や諸職の町人から、鯉の到来物で、もう池にははいり切れません』
 と、家臣も途方にくれていたという。
 これで見ると、贈賄する方は、つねづね彼の身辺にまで腐心の末の隠密を用いていた事さえわかる。どうしたら先方の気に入るだろうか。あらゆる苦心をするものらしい。だからこれらの魑魅ちみがなす社会作用も恐るべきではあるまいか。そうした風潮が時の官権へいかに腐心して媚びを競ったかという実例に、当時、吉原あたりでは“ままごとだな”と称する一つの名物を生んだと「匏庵遺稿」は書いている。