歌う白骨(うたうはっこつ)

「滑車でおりるんだね。君は綱の輪に腰かけていたらいい。揺れるようだったら、もう一本綱をおろしてやるよ。」
「そんならそうしよう。しかしゆっくり綱をおろしてくれよ。」
 ボートが鉄筋の脚に横づけになる頃には、すべての準備ができていた。綱の端に坐る彼は、滑車のきしる音に合せてなにやらどなりながら、大きな蜘蛛のようにぶらさがっておりた。彼の持物をいれた箱と袋もあとから綱でおろした。そんなものを収容したボートは、船にこぎかえるとまた彼やその持物を綱でつりあげ、それからブリグ型の石炭船は、ケントの浅瀬を南へむけて走りだした。
 ひとりになったゼフリズは、手摺のそばによって、船の人声の聞えなくなるまで見送った。だんだんその船は小さくなった。やかましい仲間がいなくなると、燈台が急にひっそりと、物淋しくなった。沖からの船はすでにプリンシズ海峡を通ってしまって、どちらをむいても静かな眺めだった。ガラスのように光る遠くの浅瀬に黒点のように浮ぶ浮標や、目に見えぬ砂州に立つ紡錘形の標識は、船のいない海を、いっそう淋しいものにしているように思われた。風に乗ってかすかに流れてくるシヴァリング砂州の浮標のベルの音が、ものうく、悲しげにひびいた。すでに彼は一日の仕事をすましていた。霧笛のモーターは掃除をすまし、油をさしていた。レンズは磨き、ランプの掃除もすんでいた。むろん、燈台のことだから、まだ小さい仕事はないことはなかった。だが、今のゼフリズは仕事に手を出す気にはなれなかった。今日は見知らぬ新参の燈台守がやってくる。これから長い間、日となく夜となく、その男といっしょに暮すのだから、その男の性格や趣味や習慣によっては、よい仲間ともなろうし、朝から晩まで腹を立てていなければならぬ仲間ともなろう。ブラウンというのはどんな男だろう? いままでなにをやっていたのだ? どんな顔の男なのだ? むりもないことだが、彼はいつもの仕事もそっちのけに、そんなことばかり考えた。
 だしぬけに陸のほうの水平線に、黒い点のようなものがあらわれた。望遠鏡をとって熱心に彼はそれを見つめた。やっぱり船だった。だが、彼の待ちうけている警備員の船ではなく、漁船にちがいなかった。しかもそれに乗っているのは一人だけだった。がっかりして彼は望遠鏡をしたにおいた。そしてパイプに煙草をつめて手摺にもたれかかり、喪心したようにぼんやりと灰色の陸の線をみつめた。
 三年間も彼はこの孤独な生活をつづけたが、活動好きの彼にとって、それは好ましい生活ではなかった。三年間も彼はなにも考えず、無限につづく夏のなぎ、冬の夜の暴風雨と冷たい霧をむかえた。霧の夜はこちらから霧笛を鳴らし、見えない船からも不気味な汽笛がきこえた。
 どうしてこんな神に見はなされた場所へ彼はきたのだろう? 広い世間が彼を呼ぶのに、どうして彼はここを去らないのだろう? 彼の頭のなかに一つの光景がよみがえった。時々思いだす光景が、また頭によみがえって、目の前の静かな海や、はるかな灰色の陸地を消してしまった。それは極彩色の絵だった。深い青い熱帯の海のうえには、一片の雲も浮んでいなかった。その絵のまんなかに、一つの白塗りのバーク型の帆船が、ゆるやかな波のうねりに浮きつ沈みつしながら進んでいる。
 だらしなく帆をひっぱりあげて、綱がゆるんでいるので、帆桁はぐらぐら動き、誰も握っていない舵輪は、舵がゆれるごとに、ひとりでに回っていた。
 しかし無人の船ではなかった。十人以上の人がデッキにみえるが、みな眠ったり、酔っぱらっていたりして、まじめな人の姿は一人も見られない。しかも、水夫ばかりで、指揮するものがなかった。
 つぎに彼の前に現れたのは船室の光景だった。海図をいれる棚や、コンパスや、クロノミーターがみえるから、船長室にちがいなかった。そこに男が四人いた。二人はすでに死んで倒れている。生きている二人のうちの、小柄でずるげな顔の男は、しゃがんで死人の服でナイフの血をぬぐっている。第四の男は彼自身だった。
 つぎに彼の見た幻は、彼ら二人が、酔っぱらいどもの船を見すてて、こっそりボートで脱走する光景だった。船は大波のたち騒ぐ砂州にむかって漂流していた。だが、次の瞬間、太陽にあたった氷のつつらのように[#「つつらのように」はママ]、波にのまれて消えてしまう。そして、船を見すてた彼ら二人は、まもなく大きい船に救いあげられ、アメリカの港に上陸する――
 それが、彼のこんな燈台守となった理由なのである。殺人を犯したからこんなところにいるのだ。もひとりの悪党、トッドは彼を裏切り、彼を悪しざまにいいふらした。一時はどうなることかと気をもんだが、彼はあやうく逃亡してことなきをえた。それいらいゼフリズはずっと世間から隠れつづけてきた。そしていまこの燈台に隠れているのだ。でも、それは法律を恐れているのではない。同じ船の者がみな死んでしまった今となっては、彼がジェフリー・ロークであることを知っている者はないからだ。彼が恐れているのは共犯者なのだ。共犯者がこわいから、ジェフリー・ロークの本名を変え、ゼフリズと名のり、こんな燈台守となって、生きながらの囚人のような生活をしているのだ。トッドは死ぬかもしれぬ――すでに死んでいるかもしれぬ――それを知る方法はないのだ。彼の釈放の知らせでさえ耳にすることはできないだろう。