オスカー・ブロズキー事件(オスカー・ブロズキーじけん)


 良心という言葉は、いろいろの意味に解釈されている。ある人はこれを苛責と解釈しているが、この苛責すなわち remorse の re は再びを意味し、morse は噛むを意味しているところから、学究的にむつかしく考える人は、良心のことを「再び噛む」というのである。それからまた、一方では良心をごく気楽に考える人もあって、そんなことが、幸福と幸福でないことの、決定的な要素のように思われている。
 むろん、良心というものを気楽に考える人にも、理窟がないことはないが、そこに大きな問題があるのである。こちこちの固い良心をもった人は、柔かい良心の人だったら「再び噛む」に痛めつけられるようなみじめな状態におちいっても、案外けろりとしているようなこともある。それからまた、ある少数の不運な人は、良心というものを全然もっていないのもあるが、これは普通人の精神的有為転変を超越できるマイナスの賜物といえるだろう。
 そのいい例が、サイラス・ヒクラーである。善意にかがやく、いつもにこにこ笑っている彼のほがらかな丸顔をみては、だれだって彼を犯罪者とは思わない。わけても、しょっちゅう機嫌がよくて、家のなかで気がるに喋り、食事の時に気のきいた冗談をとばす彼を、いつも見ているはずの、彼のうちの尊敬すべき高教会派の家政婦は、彼を信じきっていたのである。
 だが、このサイラスという男は、じつのところは、その控えめではあるが不自由のない収入を、泥棒の技術でえていたのである。それは不安定で危険な仕事にはちがいなかったが、判断をあやまらず慎重にふるまえば、そう危険とばかりはいえなかった。そして、もともとサイラスは、判断力をもった男だったのだ。彼はいつも一人で行動した。だれにも相談しなかった。これが共犯者のある犯罪者だったら、法廷で困ってきたりすると、共犯者をおとしいれるような証言もしようが、彼には共犯者がないので、そんな心配もなかったし、また、なにかの拍子に怒って密告するために、警視庁にとびこむような女ももっていなかった。それかといって、多くの犯罪者のように、強慾でもなければ、つかんだ金を湯水のように使うくせもなかった。周到な計画のもとにひそかに行なう彼の犯罪のみいりは、わりにすくなく、かつ犯罪と犯罪とのあいだに、相当の期間をおくというふうだったが、そのかわり彼はそのみいりを控えめに生活費につぎこんだ。
 若いころ、ダイアモンド関係の仕事をしたことのあるサイラスは、いまでも時々ではあるがそれに手をだすので、どうかするとダイアの密売者とうたがわれたり、また二三の不謹慎な業者は、彼のことを盗品故買者だと蔭でささやいたりする。でもサイラスはにこにこ笑いながら自分の道をすすんだ。彼には彼の考えがあったし、アムステルダムの宝石商人は彼と取り引きしながら、べつに彼のことをせんさくしもしなかった。
 サイラス・ヒクラーはそんな男だった。ある十月の夕方、ほのぐらい自分のうちの庭を歩きまわる彼は、どうみても、つつしみぶかい中産階級の人としかみえなかった。大陸へ渡る時に着るいつもの旅行用の服を着て、荷造りのできた鞄は、シティングルームのソファのうえにおいてあった。彼のチョッキのポケットのなかには、ダイアの包みがあったが、それはこっそりではあったが、とにかくサザンプトンで正直に買った品物だった。右の靴のかかとの、くりぬいた穴のなかには、もっと高価な包みがかくしてあった。一時間半ほどしたら、船に連絡する汽車にのらねばならぬが、それまでは、こうして薄暗い庭をそぞろあるきしながら、来るべき商談をどう進行させるべきかというようなことを、考えるよりほかになすべきことがなかった。家政婦は週にいちどの買物でウェラムへ行き、十一時ごろまでは帰らぬはずだったので、彼は家のなかに一人でやや退屈だった。
 家のなかにはいろうとしていたら、庭さきの道、それは、時々人が歩くので自然に道のようになったところだったが、そこに人の足音がきこえた。立ちどまって耳をすました。近くに人のすみかはないし、またその道は庭のそばだけで、ちょっと行くと立ち消えになっているような道だった。来客だろうか? だが、サイラス・ヒクラーのうちには、めったに来客がないので、いまどきそんな者が来ようとも思われなかった。石だらけの固い土を踏む足音はしだいに近くなる。
 サイラスが好奇心にかられて、門に近づいて外をのぞいてみたら、煙草の火にてらされた人の顔がみえ、それからその人影は、うす暗がりを近づいて、彼のまえにたちどまった。その男は口にくわえていた巻煙草をとり、ぷっと煙をはきだして、
「この道を行くと、バドシャム駅へ出られますか。」ときいた。
「いいや、」とヒクラーはこたえた。「この道はだめですが、もっと向うのほうに、駅へ出る細い道がありますよ。」