巷の子(ちまたのこ)

 西洋封筒の手紙が一通他の郵便物にじりこんでゐて、開いて見ると、わたくしはあなたのお作品が好きで大概の物は逃がさずに讀んでゐるが、好きといふことは作者の文章のくせのやうなものに、親身な知己を感じてゐるものらしく、そのくせのやうな所に讀んでまゐりますと、まるめこまれる自分の心の有樣がよく解りまして、そこで讀んでゆく速度をおさへてゐる間が大變に愉しうございます。先をいそいで讀まうとしながら故意わざとじらせるやうに、少しづつ頁を返してゆくうちあなた樣に手紙を書かなければならないといふ氣が、本の内容の面白さと一しよに連れられて固い決心をさせてまゐりました。わたくしは永い間バーといふものを經營してゐて、いまもお店のかんとくをしながら毎晩皆さんのおつきあひで、亂次のない毎日をおくつてゐる者でございます。だから、晝間はこんなにきちんとしたお手紙が書きたくなるのでせうか。或いはごぞんじかとも思ひますが、至つて小さな帽子を裏返しにしたやうな銀座の裏町に、澤山にあるバーのその一軒なんですけれど、女が一人でくらしてゆくには充分でございます。
 この手紙の住所は品川區になつてゐて、住所は明記してあるがバーの所在がわざと書いてなかつた。手紙の筆蹟もじやうの方であり年齡三十七八、恐らく相當の美貌を持ち、心にも物質にも餘裕があつて作家には初めて手紙を書いて送つたといふこと、バーの名前を書いてないことが禮儀を加味してあることで、無難であつた。大抵、私は返事をかかなければならない場合、女の人には一さい封書はつかはない、誰が讀んでもよいやうに葉書に認めてゐるのである。この返事には即吟一句を書いて送つた。「草摘む子ところも言はで去りにけり」
 また手紙が來てお店の住所がきもお知らせしたいのですけれど、いまはその時期でないやうな氣もいたしますゆゑお許し下さいと記し、お店にゐるわたくし自身をあなたにお見せしたくないし、わたくしもお店でおあひしたいとは思ひません、若しお許しがあれば品川の家からはお宅へは近いやうに思はれますからお訪ねいたしたいと、書いてあつた。品川にも家を一軒持つてゐる點からうかうかした返事も送れないと、例の俳句をむだがきにして置いた。「摘草の子には來るなといひにけり」こんなにはつきり言はなくともよかつたが、俳句も書いて了つては直すわけにゆかない、一度も會つたことのない人が來るのは窮屈である。それが美女でなければ困るが、美女であつてもなほ始末に困るといふ氣持で、さらにもう一句いくらか「くるな」といふ言葉をなだめて慊すやうに書いた。「摘草のうたごゑ土手もはるかかな」この返事にはお歌にあるやうでは、お訪ねしてわるいやうにも思はれ、お訪ねしないことにいたしました。ただ讀んでさへ居ればよい筈なのに讀者といふ者は、時には作家にあひたい氣のするものでございますと書き、俳句のことをお歌と書いてあるのも、俳句と書くのも御句としたためるのに、字句のひびきの惡いのを避けてお歌と書いたわけが、うがつた字句の表現だと思つた。
 手紙といふものは大抵の女の人はうまく書く、手のとどかないところに手がとどいてゐて、手紙だけ讀んでゐるとこんな人がこくめいな小説を書いたら、舌の先がひかつてみんな舐めたやうに書くだらう、われわれの舐めるところは何時も決つた一ところだけに限られ、舐めないところは何時も舌もとどかないところだと思つた。彼女はお店であなたの小説が好きだとつい言つてしまふので、お客樣がおーい彼の人の本を買つてきたからと言つて頂かして下さる、お訪ねしたいのだけれど、何時かの「くるな」と仰言つたお歌をみると意地にでもあがりたい氣がし、しらべて見ましたら家からはくるまで十二三分しかかからない手近いお住居のやうで、早くお許しが出ればいいと思つて居ります。それはわたくし自身がお店のところもお知らせしないのが惡いのかも存じませんが、その内、きつと自然におわかりになるときがございませうから、その時までこのままお報せしたくない氣がいたします。來る晩もみにくく醉つてゐては突然いらつしつたらどんなに不愉快な女に思はれるかもわかりません。今夜こそお酒は控へめにしようと出がけに祈つて出てみるのですけれど、夜がふけるまでには何が彼やら判らなくなつてしまふ毎晩のふしだらでございます。それでも家には何時もちやんと着いてゐて、なにごともなかつたやうに清爽すがすがしく毎朝をむかへてゐるのです。摘草の子は晝間は温和しく野では十七八くらゐに見えますけれど、夜がくるとお下げがぐるぐる捲きあがつて、ばつさりと衿あしをぬりつぶしてしまひます。そのやうな時には何としてもお目に懸りたくはございません、と、彼女からまた西洋封筒の手紙がとどいた。
 戰前から二度も入院した胃潰瘍の爲、私はキャバレーやバーには十四五年間に一度も行つたことがなかつた。酒を禁じられてゐる爲もあつたが、もひとつ、四十歳から六十歳までの永い二十年の間、私は酒ばかり飮んでその擧句バーに入りびたりになつてゐた。バーの居づらさ、バーの面白くない事、バーが結局なんにも心の足しにならない事など、芯にこたへ、時間と金の空費とにつくづく眼にかなしみを覺えて見る女達さへ、いとはしい者であつた。燈下管制の銀座の地下鐵で降り、また地下鐵で新橋まで歸つて其處から大森までの省線で家につくのだが、それでも五十四五歳の私は暗いふはふはした管制下の町を歩いてバーに這入り、街路の闇を此處でしたたかに嘔き下してゐた。街は硝煙臭かつたけれど、暗い中でも人殺しや暴漢なぞは今時のやうにはゐなかつた。かれらは燐寸の火を貸し合ひ、屋號の判らない家を教へるため隣組がそれを搜してくれたものだ、私はそんな街の中で飮んでゐたといふより女の顏のあたらしさを見ることで、この大動亂の隙間からなにかにありつかうとして、警報下では頸をちぢめて通うてゐた。この時期には人間の命といふものが大切にまもらねばならぬために、一さいの物がそれに仕向けられてゐた半面に、どうせ死ななければならないかも判らない瀬戸際も、そこに渦まいてゐたのだ。友達同士がわかれる時にこんど會ふときは生きてゐるかどうかな、などと戲談をいふところにまで私達は切羽詰つてゐた。醉うて拾圓紙幣をチップに支拂ひ、女の子がこれでたすかつたといふ言葉を耳にいれたくらゐ、金にも人々は行詰つてゐたのだ。街は暗く哈爾賓のキタヤスカヤの通りそつくりの、うすくらがりに通行人はかたまりながら歩いてゐた。街の通行人ですら自然にかたまつてゐたのだ、かたまつて居ればられても一人でられない依頼の氣があつた。聲も音もない通行人とふはふはした闇の中には、殆ど女性の歩いてゐるすがたは見えなかつた。