神の剣(かみのつるぎ)

 彼はルドウィヒ街を上って行った。ゆるやかにしっかりと、首を垂れたまま、鋪石のないひろい車道のまんなかを、塑像で飾られた巨大な外廊へむかって、歩いてゆくのである。が、オデオン広場まで来た時、彼は眼をあげた――すると、角張った額に横皺ができた――そして足をゆるめた。あの大きな美術商館、ブリュウテンツワイク氏の手びろい美術品店の陳列窓に、おおぜい人がたかっているのに目をひかれたのである。
 みんなは窓から窓へと歩いて、互いにひとの肩越しにのぞき込みながら、並べてある貴重な品々を指さし合っては、意見を交換していた。ヒエロニムスはその群に入り込んで、自分もまたそこにあるいっさいの品々を、一つ一つ残らずながめはじめ、点検しはじめた。
 彼は地上のあらゆる美術館にある傑作の模写や、簡素で奇妙な模様の高価な額縁や、ルネッサンスの彫刻や、ブロンズの裸形や、飾りコップや、きらきら光る花瓶や、装幀や、さては芸術家、音楽家、哲学者、俳優、詩人の肖像などを見た。残らずよく見た。一々の品を一瞬の間みつめた。外套を内側から両手で合わせたまま、例の頭巾で覆われた頭を、小さくこまかく動かしながら、品から品へと移してゆく。鼻根のところでひどく濃くなっている黒い眉は釣り上げられて、その眉の下から両眼がふしぎそうな、鈍い、冷たくあきれたような表情で、あらゆる品々を一々しばらく見つめる。こうして彼はあの第一の窓に達した。くだんの大評判の画が置いてある窓である。彼はちょっとの間、自分の前にひしめく人たちの肩越しにながめていたが、ようやく前のほうに出て、陳列窓のすぐそばに寄った。
 大きな赤褐色の写真は、秀絶な趣味の古金の額に入って、画架に乗ったなり、その窓のまんなかに立っている。それはあるマドンナであった。きわめて近代的な感覚を通した、いっさいの因習を脱した自由な作品だった。この聖母の姿は魅するような女らしさがあり、裸形で美しかった。大きな重苦しい眼のまわりには、黒ずんだ縁があって、優しく奇妙に微笑している唇は、なかばひらかれたままだった。少しいらいらと引き釣ったように並んだ細い指が、子供の腰をかかえている。それは際立って、ほとんど原始的に、ほっそりした裸の男の子で、彼女の乳房をもてあそびながら、見る人にさかしげなながしめを向けているのである。
 ほかに二人の青年が、ヒエロニムスと並んで立ちながら、この画について話し合っていた。国立図書館から持ってきたか、あるいはこれからそこへ持ってゆくかする書物を小脇に抱えた、二人の若い男で、芸術と科学に通暁している、古典的教養を持った人たちである。
「あの小僧め、うまくやっているな、まったく。」と一人がいった。
「それにあいつ、たしかにわざわざ人を羨ましがらせようとしているね。」ともう一人が答えた。――「なんだかけんのんな女じゃないか。」
「人を気違いにする女だ。純潔な受胎という教理が少し疑わしくなるよ。」――
「うん、まったくだ。この女の印象はかなり貞潔じゃないね。――君は原画を見たのかい。」
「見たとも。すっかりやられちゃったよ。色があると、これがもっとずっと肉感的に見えるんだ――ことにあの眼がね。」
「よく見ると、やっぱりたしかに似ているなあ。」
「というと?」
「君はモデルを知らないのかい。あの男は君、情婦の小間物屋の女を、これに使ったんじゃないか。これはほとんど肖像だといってもいいくらいさ。ただ自堕落なほうへ、ずっと引き寄せて描いてあるだけだ――あの小さな女はもっと罪がないよ。」
「そうあってほしいね。もしこんな mater amata(恋の母)のようなのがたくさんいるとしたら、人生は苦しすぎるだろうからな。」――
「美術館がこれを買ったんだよ。」
「ほんとかい。なるほどね。美術館もともかく眼があるんだね。この肉の扱いかたと、着物の線の流れかたは実際たいしたもんだ。」
「うん。うそのように天分のある男さ。」
「君知っているのかい。」
「ちょっと知っている。あいつは出世するよ。きっとするよ。もう二度も国主の御陪食をしたんだもの。」――
 しまいのほうは、もう互いに別れを告げはじめながら、話したのである。
「今晩の芝居で君に逢えるかしら。」と一人が問うた。「戯曲協会がマキャヴェリのマンドラゴラをやるんだが。」
「ほう、すてきだね。そりゃきっと面白いだろう。僕は芸術寄席に行く積りだったんだが、結局、あの勇敢なニコロのほうを取ることになるかもしれない。じゃまた。」――
 二人は別れて引きさがって、右と左へそれぞれ歩いて行った。さらに新しい人々が、二人のいた場所へ詰めかけて、この大当りの画をながめた。しかしヒエロニムスはみじろぎもせず、もとのところに突っ立っていた。彼は首を前にさし伸べたなり立っている。そして胸のところで、外套を内側から合わせている両手の、痙攣的に握りかためられているのが見える。眉はもはや、あの冷やかな、少し悪意を帯びた驚きの表情で釣り上げられてはいず、さがって暗くなっているし、黒頭巾で半ば隠された頬は、さっきよりもこけたように見えるし、また厚い唇はすっかり蒼ざめているのである。頭はおもむろにだんだん低く垂れていって、しまいに彼は全く上眼づかいに、凝然と例の芸術品を見つめるようになった。大きな鼻の両翼がふるえている。