幸福への意志(こうふくへのいし)

 老ホフマンはその金を、南アメリカの耕地の持主として、儲けたのであった。彼地で家柄のよい土着の娘と結婚してから、まもなく妻を連れて、故郷の北ドイツへ引き移った。二人は僕の生れた町で暮していた。ホフマンのほかの家族たちも、そこに住みついていたのである。パオロはこの町で生れた。
 その両親を僕は、しかしあまりよく知らなかった。が、ともかくパオロはお母さんに生き写しだった。僕がパオロをはじめて見た時、つまり両方の父親たちが僕等をはじめて学校に連れて行った時、パオロは黄ばんだ顔色の、やせこけた小僧だった。今でも眼に浮かんでくる。彼はその時、黒い髪の毛を長くうねらせていたが、それがもじゃもじゃと水兵服の襟に垂れかかって、小さな細面ほそおもてをふちどっていた。
 僕等は家では非常に仕合せに暮していたのだから、新しい周囲――殺風景な教室や、なかんずく僕等にぜひともABCを教えようとする、赤髯の小汚ない人間どもには、どうしても不服だった。僕は帰って行こうとする父親の上着を、泣きながらつかんで放さなかったが、パオロのほうは、まるで忍従の態度を取っていた。身動きもしないで壁によりかかって、薄い唇をきっと結んだなり、涙で一ぱいの大きな眼で、景気のいいほかの少年たちを眺めていたのである。その連中は横腹を突つき合いながら、冷酷ににやにや笑っていた。
 こんな調子で怪物どもに取り囲まれていたので、僕等ははじめから、互いに惹きつけられるような気がした。だから、赤紫の教育家が僕等を隣同士に坐らせてくれた時には、嬉しかった。それ以来、僕等は団結してしまって、共々に教育の基礎を築いたり、毎日、弁当のパンの交易を営んだりした。
 思い出して見れば、彼はしかしもうその時分から虚弱だった。時々かなり長く学校を休まされたが、再び出てくると、いつも彼のこめかみと頬には、平生よりなお明らかに、薄青い脈管が現われていた。かぼそい、浅黒い肌の人に限って、よくあるやつである。彼のはその後もずっと消えなかった。このミュンヘンで再会した時にも、それからあとロオマで逢った時にも、第一番に僕の眼についたのはそれだった。
 僕等の友情は、それが成立したのとほぼ同じ理由で、ずっと学校時代を通じて継続した。理由とは、同級生の大多数に対する「距離の感激」である。十五歳でひそかにハイネを読み、中学三四年ぐらいで、世界人類の上に断乎たる批判をくだすほどの者なら、誰でも知っているあの感激である。
 僕等はまた――二人とも十六だったと思うが――一緒に踊の稽古にも行って、その結果、共々に初恋を経験した。
 彼を夢中にさせた小娘は、金髪の快活な子で、彼はその子を、年の割にはいちじるしい、僕には時々ほんとに気味悪く思われたほどの、沈鬱な激情であがめていた。
 僕は特に或る舞踏会のことを思い出す。その少女があるほかの少年に、ほとんど立て続けに、二度もコチリオンを踊ってやりながら、彼には一度も踊ってやらなかった。僕ははらはらしながら、彼の様子を見ていた。彼は僕と並んで壁にもたれたまま、じっと自分の塗革靴をにらんでいたが、不意に気を失ってぶったおれてしまった。家に帰されてから、彼は一週間病床についていた。その時分――この事件のおりだったと思う――彼の心臓の決して健全でないことがわかったのである。
 すでにこの時以前、彼は画を描くことをはじめていて、そのほうでは並々ならぬ才能を発揮していた。木炭の走り描きで、あの少女の風貌が如実に現わしてあって、下に「なれは花にも似たるかな――パオロ・ホフマン作之」と書いてある一枚を、僕はまだ蔵している。
 いつのことだったか、はっきり覚えていないが、ともかく僕等がかなり上級にいた頃、彼の両親は町を去って、カルルスルウエに住みついた。老ホフマンはそこにいろんなつづき合いを持っていたのである。パオロは学校を換えないことになって、ある老教授のところに預けられた。
 ところが、この状態も長くはつづかなかった。パオロがある日両親のあとを追って、カルルスルウエに行ったのには、次の事件が、まあ直接の動機ではなかったにしても、ともかくあずかって力があったのである。
 というのは、ある宗教の時間、不意にくだんの教授が、物凄い眼付をして、つかつかと彼のところへ歩み寄るなり、彼の前にあった旧約聖書の下から、紙を一枚引っ張り出した。それには、左足だけまだ出来上っていない、きわめて女性的な姿が、なんら羞恥の色もなく、現われていたのである。
 こういうわけで、パオロはカルルスルウエに行った。そして僕等は時々はがきを交換していたが、その交渉も次第次第にまったく絶えてしまった。
 ミュンヘンでふたたび彼に出会ったのは、別れてから五年ばかり経った後だった。あるうららかな春の午後、アマアリエン街を下って行くと、アカデミイの入口の石段を、だれかが降りて来るのが見えた。遠くから見ると、まるでイタリア人のモデルかなんぞのようだった。近づいて見れば、それはまさしく彼だったのである。