日本その日その日(にほんそのひそのひ)

序――モース先生

石川千代松


 一八八七年の春英国で科学の学会があった。この時ワイスマン先生もれへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウェルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。夫れで先生は火星の本を書かれた。処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大喝采かっさいを博した。で帰って見たら斯んな物が来て居たと。先生は夫ればかりでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロースターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、此方こちらは自分のお友達よと云うて私に紹介され、サーれからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜などには方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。
 今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人連が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。
 斯様かように先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。
 先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた腕足わんそく類を日本で又調べ度いと思ったからである。で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を招聘しょうへいしたいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。