日本その日その日(にほんそのひそのひ)

 其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。
 先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。れ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遙か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。処がここに面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の講義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。
 先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。
 処が当時本邦の学校にやとわれて居た教師連には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云うなど云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。
 此大森の貝塚に関して一寸ちょっと云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。
 斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の嚆矢こうしでもある。東京生物学会は其後動植の二学会に分れたが、其最初の会長には先生は矢田部良吉先生を推されたと私は覚えて居る。
(先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後其処そこに記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。何んと悦ばしい事であるまいか。)
 之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャッパン・デー・バイ・デーとなったのである。何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の炯眼けいがんで観察せられたものであるから、誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本贔屓びいきであって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣根や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようはう云うたものであった。
 又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗されたはなしも時々聞いた。其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。先生は宿屋の主婦を呼び、紙に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦はあわただしく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って来た。無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。