秋の鬼怒沼 (あきのきぬぬま)


大正九年十月十日。松本善二君とともに、午前五時五分発の列車にて上野駅出発、九時二十七分日光着。馬返まで電車に乗り、午後二時三十分中禅寺湖畔、三時五十分湯元。板屋に泊る。

 日光の町から馬返へ行く途中、眉を圧して聳え立つ女貌にょほう山や赤薙あかなぎ山の姿が、或は開けた谷間の奥に、或は繁った黒木の森の上に、電車の進行に連れて忙しく右手の窓から仰がれる。其中腹千五、六百米附近と思われるあたりに、真紅なそして冴えた一団の霞のようなものが諸所にたむろしている。それは汽車が文挟ふばさみ駅を過ぎて今市に近づく頃から既に眼に映じていたものであったが、今此処ここから見ると霜に飽いた紅葉であることがはっきりと認められたのであった。しかし麓の秋はまだ浅い。神橋しんきょうのあたりではわずかに紅を催すという程度である。剣ヶ峰ではそれはなり色づいてはいたが、中禅寺に来てはじめて秋の日光らしいよそおいが見られた。
 中禅寺の秋を代表するものは、何と言っても大崎から古薙の辺に至る間の湖畔一帯の闊葉樹林であろう。水を隔てて南に丘陵の如く横たわる半月山やしゃ山の連嶺も、黒木は多いが相当の距離があるので明るい。千手ヶ原の湖水に接したあたりは、あしやらすすきやら禾本かほん科植物の穂先が、午下の太陽から迸射する強い光芒に照されて、銀の乱れ髪のように微風にゆらめいている。その奥にほのかに紅味のさした紫にぬりつぶされて、秀麗なすずヶ岳が西の天を限っていた。久振りで眺めた中禅寺湖畔の秋色は矢張やはり勝れていると思った。
 戦場ヶ原は秋正にたけなわである。東から北にかけての落葉松の林が続いていたように覚えているが、今は殆ど伐り尽されて、眺望は開闊になった。男体太郎二山の裾や小田代原方面の紅葉も無論よいが、泉門いずみやど池の北方で湯元への道が端山の裾に沿うて緩かに上るあたり、掩いかかる大木の梢から下枝の先に至るまで、鮮かな黄に彩られた霜葉の美観は、けだし此処の圧巻であろう。温泉ゆせん岳から金精山や前白根に至る諸峰も指呼の間にある。奥白根の絶巓ぜってんも何処かでちらと見たようであったが判然しない。
 湯元に来ると二度も雪が降ったという程あって、紅葉は既に爛熟して、次の木枯こがらしには一たまりもなく吹き掃われそうである。濃紅の色の中にもはや凋落ちょうらくの悲哀が蔵されている。それがまた黒木の茂った静寂な環境と調和して、寧ろ凄味ある湯ノ湖を中心に、陰鬱ではあるが、極めて荘重な風景を現している。日光の秋はここに至って時と処と共に其きわみに達した。湖の北畔の水際からは湯のけむりが濛々もうもうと立ち昇って、夕暮の晴れた空に消えて行くのであった。
 湯治の客は大方引き上げて、観光を目的の旅の人も此処まで来る者は稀にしかないので、どの宿も閑そうである。私達の泊った板屋にも四、五人の客しか居なかった。明がた寒いと思ったが、起きて見ると霜が真白で、あらたに掃かれた庭前の若いけやきの下には、紅葉が箒目を隠す程に散っていた。余りにせせこましく粧飾された湯殿は気に入らないが、温泉に浸る心地はいつもながら実に好い。
 鬼怒沼まで尾根伝いを続けて行くには、人夫がいる方が都合がよいので、一人雇うことにした。さいわいに大金弥一郎という逞しい男がいて、案内は出来ないが、お伴なら何処へでも行くという。三日間十円は高い。けれども湯元にいて仕事をしても其位にはなるのだからと主人がいうままに話は纏った。


十一日。午前七時五十分板屋出発、金精峠に向う。九時四十五分峠の頂上。十分間休憩して後、国境の切明けを辿り、十一時温泉岳のいただきに達す。眺望広闊、遠く北アルプスの諸峰および飯豊山の白雪を望む。午後十二時二十分頂上出発、急斜面を下り、十二時三十五分鞍部。一時高薙山への分岐点。二時湯沢山頂上、木立繁く遠望なし。これより長き下りとなり、三時三十分最初の鞍部。四時二十分菅沼北方の千四十米の峰より右に下り、十五分にして水を得て野営。

 湯元の耕地を離れて、金精峠の登りにかかるあたりの森林は、いつ見ても美しい。一面に青青と繁った短い笹を下草にしてかんばはんのきの類などの交ったつがの深い林である。それは勿論木立がそれ程珍らしい訳ではない、秩父あたりにもこれ位の森林はいくらもある。しかしこのなよやかな笹原は容易に他所で見られないものである。如何にも気持がよい。人工を加えたもののように見えて全く自然のままなのである。菖蒲ヶ浜の養魚場の建物の附近も、元は殆どこの通りであったが、今はなかば以上も天然の面影を失ってしまった。