剣の四君子(けんのよんくんし)


 母のすがたを見ると、甚助じんすけの眼はひとりでに熱くなった。
 世の中でいちばん不倖ふしあわせな人が、母の姿であるように見られた。
「どうしたら母は楽しむだろうか」
 物心のつきめた頃から、甚助はそんな考えを幼心おさなごころにも持った。
 ふと、何かのはずみに、その淋しい母が、笑うかのような歯をくちにこぼすと、
「母上がお笑いになった」
 と、その日は一日、彼も楽しく遊ぶことができた。
 十二、三歳になると、そんな考えがもっと深くなって、
「なぜだろ?」
 と、思うようになった。
 自分が何をした時に、母の顔がうれしそうになるか、に気がつきだした。
ほんが好く読めた時と、長柄ながえの刀で、樹がよく斬れた時だ」
 少年林崎甚助は、それからよけい声を張って良く書を読み、外へ出ては、身丈に過ぎた長巻刀ながまきって、丈余の樹のこずえを、跳び斬りに斬って落した。
 古い土塀門の外にって、母は時折、微笑んでくれた。
 その母は、またなく美しい人だった。年もまだ若かった。名は楡葉にれはといった。
 楡葉は若後家であった。祖先からの土豪造どごうづくりの家は、羽前の大川たいせん最上もがみの流れに沿い、甑嶽こしきだけふもとにあった。山形から十里余、楯岡たておかとりでから北へ一里、土称どしょう林崎という部落にあった。
 この地方一帯は、足利家の管領斯波しば氏のわかれ最上一族の勢力けん内であった。甚助の父も、最上家の臣だった。
 上杉謙信の越後本庄から最上川をさかのぼれば、最上領東根ひがしね砦町とりでまち、また、黒伏嶽くろぶせだけや高倉の山道を越えれば、一路伊達家の仙台に通じる。武強の隣藩と境を接して、連年、ここにも戦乱は絶えなかった。
 甚助は信じていた。
「わしの父者人ててじゃひとは、いくさで死んだのだ」
 それは、父なき少年の、せめてものほこりでもあった。
 ところが或る時、楯岡たておかとりで町から部落へ来た馬商人あきんどいて来た馬へ、甚助が他の少年たちと共に、悪戯いたずらすると、その中の一人の馬商人が、こぶしを振上げて、逃げおくれた甚助のうしろからこう呶鳴どなった。
「このわっぱめッ。そげな悪性あくしょう真似まねしさらすと、れが父者ててじゃのように、れも今に、闇討ち食ってくたばりさらすぞ」
 その声は、甚助の耳より魂をつき破った。甚助は、色あおざめて逃げて来た。それからもうほかの子と遊ばなくなった。


 長柄ながえという武器は、戦時の用具である。平時の刀では短きに過ぎるので、いざという場合、常の刀へ、常用のつかより寸法の長い特殊な柄をすげ替えて、これを引っちにして、戦場へ働きに出るのである。
 別名、長巻ともんでいる。
 その寸法は、およそ三尺の刀身なかみへ、二尺二、三寸の柄をつける。三尺以上の刀になれば、それに三尺もある長柄をすげる場合もある。
 林崎甚助は、天文十六年の生れで、その年少十四、五歳の頃は、ちょうど永禄年間に当り、戦国の英雄が諸州におこした頃であったから、長柄の流行は、さかんを極めて、戦場ばかりでなく、平時でも引っ提げて歩く者があった。
 織田信長は、その頃、自己の歩兵隊に、刀の長サ三尺、柄四尺という長柄を揃えて持たせて、敵陣へ突貫とっかんさせて、いつも敵の一陣を縦横じゅうおう刺撃しげきして駈けくずしたということである。もっとも、それから間もなく鉄砲が渡来して全国に行きわたったので、後には、第一陣鉄砲隊、第二陣長柄隊というふうに、戦術の編制は変って来たが、とにかく甚助の少年頃には、ふと物置小屋をのぞいても、長柄のびたのが一本や二本は転がっている程だった。それほど普及された兵具であった。
 まき切りに、甚助が持ち馴れたのも、父の代に、戦場から束にして分捕って来た物のような中の一本であった。
 それも、何のためか知らないが、母の楡葉にれはから、
「枯れ木を拾うは百姓の子ぞ、そなたは、こずえの木を、長柄でろして来やれ。長柄も背丈も届かぬ梢も、心して跳んでって見やい。それしきもの斬れねば、殿様の御馬前に立って、いくさにわで人勝りの働きはならぬぞい」
 と、云い聞かされて、七ツ八歳やつ頃からし始めたことであった。雨さえ降らなければ、日課のように、
「甚助。まきろして来やい」
 母は、いいつけた。
 よく斬れると、遠くで、見ている母が微笑んでくれる。それがうれしさに、甚助は、高い樹へ、高い樹へと、次第に望みを大きく育てて、長柄を小脇に、仰いで迫った。