日本名婦伝(にほんめいふでん)


 木も草も枯れ果てて、河内かわちの野は、霜の白さばかりが目にみる。
 世はいくさに次ぐ戦であった。建武けんむの平和もつかの間でしかなかった。楠木正成くすのきまさしげ、弟正氏まさうじたち一族のおびただしい戦死が聞えた後も、乱はまなかった。山は燃え、河はさけび、この辺りを中心として、楠氏なんしの軍と、足利勢あしかがぜいとの激戦は、繰返され繰返されて、人皆が、冬野の白い枯木立のように、白骨となり終らなければまないかに思われた。
「……何として近づこう」
 ひとり野を歩いて行く男は考えていた。
 足利方の大将山名時氏やまなときうじの家来で、漆間うるしまぞう六という者だった。蔵六の顎にも霜が生えていた。五十がらみの武者である。
 蔵六はしかし武者いでたちはしていない。薬売りの持つ旅つづら一つになって、それに似合う下人げにん脛当はぎあてを着け、野太刀ひと腰さしていた。
「おや。……輿こしが行くぞ。女人にょにんのお輿らしいが」
 冬木立の間を駈けぬけ、にわかに、野の一すじ道へ急ぎ出した。
 彼が、大声して、手を振ったので、先を行く輿は、
「何者?」
 と、止まったが、同時に、それを守る七名ばかりの郎党は、怪しみの眼をそろえて、長巻刀ながまきを向けたり、弓に矢をつがえかけたりした。
 蔵六は、次にまた、怪しい者でない由を呶鳴り立てた。京都みやこで聞えている薬師くすしの店のあるじだと云った。妙心寺のお書付も所持しているし、授翁和尚じゅおうおしょうもよく存じ上げている。自分の家法とする金創きんそうの名薬は、以前、その授翁様を通じて、さきに討死遊ばした正成様の御陣へもさしあげて、おほめにあずかったことがあると云った。
「して、その薬師が、この戦場へ何しに、また何用で、われらを呼びとめたか」
 輿の従者たちがとがめ返すと、蔵六は、家法の陣中薬を、東条の城へ献納のために来たと答え、洛内らくないの商民である自分らとしては、せめてこういうことでもするしか、朝廷への御奉公の道はないので――などと云い足した。
「いかがしたものでしょうか」
 従者のひとりは、輿の内なる若い女性に伺っていた。蔵六のことばを民草のしおらしい真心と聞いたか、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけた声音こわねの主は、計ろうてとらせてやるがよいと、内で云った。


 千早ちはや金剛山こんごうせんは云わずもがなである。この辺はどんな小山も窪地くぼちも、さくとりででないところはない。
 だが蔵六は、折ふし途中で会った内侍ないしの供に加わって来たので、難なく要塞の本拠まで入れた。後で聞けば、輿の※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうは、吉野の仮宮に仕える内侍所の女性で、何かのお使いで東条の城へ見えた途中であったという。
 正成の戦死して後、ここは楠氏の本城地ほんじょうちであった。十八郷の勤皇の将士の多くは、正成と共に湊川で殉じたが、なお孤塁には三千の忠精があった。いわおのような結束があった。
「――だが、屈強な者は、目立ってっているな」
 蔵六は、そう観た。
 彼が、入り込んだのは、正平しょうへい二年、足利勢の細川兵部大輔ひょうぶだゆうや山名時氏の軍が、もろくも年少の大将楠木正行のために、一敗地にまみれて敗走したすぐ後のことだった。
 で、ここには今、戦捷の意気がみなぎっていた。山名細川の首も近く見ようぞ。春ともなれば、尊氏たかうじの首級を、京にけて、神璽しんじを奉じ、主上の還幸をお願いし奉ろうぞ。そうみな希望にかがやいていた。
 けれど、蔵六の眼で見れば、その人々の信念にただ驚くばかりであった。彼が仕えている足利の軍隊からみれば、兵数は勿論、兵器、食糧、装備の諸具、欠乏を告げていない物はない。
 農倉のひえあわは云うまでもなく、畑の物も土をふるいにかけたように喰べ尽している。龍泉寺の樹々も、ここの草木も、焚物たきものとして焚き尽し、立っているのは、風雨に黒くよごれた幾十りゅうかの菊水の旗ばかりであった。
 わけてもここで欠乏して困っているのは、病舎にいるたくさんな負傷者に用いる陣中薬であろう。そう察して、蔵六が、献上と称して持って来た物は、案のじょう、
「よくぞ」
 とばかりとりでの人々に歓ばれた。
 各所の小合戦は絶え間ないし、傷者は殖えるばかりだし、それにまた、蔵六が、薬師くすしというので、
「御奉公のため、働きたいというか。殊勝しゅしょうなことである」
 と、そのまま、城寨じょうさいのうちにいることも許された。
「しめた。ここまで事が運べば」