剣の四君子(けんのよんくんし)


 れたかきが落ちている。何のことから始まったのか、柿の木の下で、兄弟は取っ組み合っていた。
 小さいけん三郎は、手もなく、兄の一郎に投げつけられて、したたかに背を大地へ打ちつけた。
「よくも投げたな」
 恥辱だと思うのだ。武士の子だ。まろびながらも歯軋はぎしりして、兄の足へしがみつく。
「まだりぬか」
 紀一郎は振り放す。小癪こしゃくな弟は、喰い下がって離れない。そしてまた組む。また勢いよく叩きつけられる。
 妹のふさ子は泣き出して、
「――あ様、母あ様」
 と、奥へ急を告げる。
 書院のやれ障子が開いて、立ち出でたのは、兄弟の母でなくて、父の山岡市郎右衛門であった。
「また喧嘩かっ。紀一郎、大きなくせに、止めんか。謙三郎、弟の分際で、兄上に対し、何たることか」
 この一喝いっかつで、兄弟は立別れ、やがて半ときもお談義だんぎを喰う。母の文子が来てびる。おまえのしつけが悪いからだと母までも叱言を聞く。幼いふさ子までが一緒に泣いてあやまりぬく。女の子の可憐いじらしさにはかなわぬといった風で、市郎右衛門は、
「泣くな、もうよい」
 と、英子をなだめることに依って、一先ず母も兄弟も、以後をいましめられてやっと許される。
 旗本といえば歴乎れっきと聞えるが、幕臣山岡家は微禄びろくだし豊かでなかった。庭の草も茫々、障子の貼代はりかえも年に一度を二年越しに持たせたりしている。唯、そんな家庭にも絶えずさかんな物音がある所以ゆえんは、元気な男の子二人のためだった。兄の紀一郎がことし十五。弟のなかなかきかない方が、やっと九歳で、通称けん三郎、あざな寛猛ひろたけ、後に養家の高橋姓に改めて、伊勢守となり、泥舟でいしゅうと号した人である。
 その高橋家は、母の里方の家だった。
 二の丸留守居役の高橋義左衛門包実かねざねが、母の父であった。兄弟たちには外祖父にあたる人だ。
 そこへ兄弟は、毎日、剣道と槍術の指南をうけに通っている。高橋家は、累代るいだい、剣、槍、薙刀なぎなたの三法一如を唱えて、幕府の子弟に教授し、流風は地味であったが、武技そのものより士魂を尊んで、幕末の頽廃的たいはいてきな士風に、復古的な武士道教育を打ちこんでいた。
 その祖父であり師である高橋義左衛門が、ふと訪れて、
此家ここの兄弟を出してみんか、人前に立たせるのも、修業のひとつじゃで」
 何の話かして帰った。
 父と祖父との対談を小耳にはさんでいた兄弟は、まろい眼を見合せていた。義左衛門が帰って行くと、紀一郎、謙三郎のふたりは呼ばれた。父の市郎右衛門は、二人を見較べて、
「そち達、よう精出して喧嘩するので、明日あすは、れて真剣の決戦をさせてやると、義左衛門様のおはからいじゃ。明日こそは、兄弟とて、紀一郎も弟に負くるな。謙三郎も兄に負けるなよ」
 と、云い渡した。


 枯れめた初冬の草床くさどこが暖い日だった。物頭ものがしら松平六左衛門の邸内に人がたくさん集まった。門脇から幕が張ってある。朝からずっと、鋭い掛声と、竹刀しない木太刀きだち稽古槍けいこやりの響きなどが続いている。
 年々一回ずつ行われる幕府の旗本の子弟の武技試験であった。各組頭くみがしら通牒つうちょうしてあるので、組頭は当日名簿と人員をたずさえて参加する。山岡家の兄弟も、ここへ連れて来られたのであった。
 人中である。兄弟はおとなしい。ふたり共、好きな道であるのでわき目もせず、きもせず、朝からずっと、各流各人の入りわり、立ち交わって戦う試合をながめていた。
 判者はんじゃの中には、兄弟の先生でもあり祖父でもある人の顔が見えている。けれど父の市郎右衛門は来ていない。
 そのうちに、山岡紀一郎、山岡謙三郎、と名を呼びあげられた。
「はいっ」
「はいっ」
 兄弟は一緒に答えて、真ん中へ出た。かいがいしい支度が人目をひいた。
「御記録となって、上様のお耳にまで達するのですぞ。懸命にやりなさい」
 世話人は励まして、二人へ同様な稽古槍けいこやりを供えた。小剣士と小剣士との礼儀をするのが、人々を微笑ほほえませた。
 だが、槍を持ったなと思う瞬間、微笑ましい光景などは消し飛んで、兄弟の掛り合うはげしい気声は、朝から続いて惰気だき満々まんまんだった大人おとなどもの試合のどれよりも真剣で凄まじくさえあった。
 そのうちに、あッ――と皆が口走った。弟の謙三郎の小さい体が、砂を浴びる山鳥のように、草埃くさぼこりにつつまれて、だっと槍もろとも、躍ったと思うと、兄の紀一郎は物すごい勢いで仰向けに突き仆されていたのだった。