死んだ千鳥(しんだちどり)



 裏藪うらやぶの中に分け入ってたたずむと、まだ、チチッとしか啼けないうぐいすの子が、自分のたもとの中からでも飛んだように、すぐ側から逃げて行く。
(おや、白い小猫?)
 と、見れば、それは七日なのかも前に降った春の雪が、思いがけなく、ふたつのてのひらに乗るほど、日蔭に残っているのだった。
『――町にも、町の人達にも、春が来ているのであろうに』
 家の中に閉じこもったきりの良人おっとの姿は、ちょうどそこの一かたまりの雪そのままな――と彼女は思った。
 墨江すみえの耳には、世間の物音が、羨ましく聞えてくる。藪向うの屋敷でする朝からの稽古鼓けいこつづみや、歌舞伎町かぶきまちの遠い太鼓の音や――。江戸の屋根は、女のつつましさへ何かそそるように、ほの紅い昼霞ひるがすみにぼかされていて、空は飽くまであおかった。
御新造様ごしんぞさま、そこにおいでで御座いましたか。――表の京染屋きょうぞめやでございますが』
 うしろの声に、墨江はふりかえって、
『ア、菱田屋ひしだやさんかえ、ちょっと待っておくれ』
 ふきとうんだ小笊こざるの中へ、藪椿やぶつばきを一枝折って、それを袂にかかえながら、彼女はわが家の台所口へ戻って来た。
 京染屋の手代てだいは、墨江にいて、板の間へ腰かけるとすぐ包みを解いて、
『まあ御覧くださいまし。あの無地のおめしが、とてもよい小紋に染上がりましてな。お仕立も、吟味いたしたつもりでございますが』
『ほんに新し物になりましたね。頭巾ずきんのほうは』
『お頭巾も持って伺いましたが、ただ、お色がちと、派手はで気味にあがりましたので』
『まあ、よい色ですこと』
『御新造様のお好みは、おしぶいうちにも、やはりちと派手気味が御意ぎょいに召すようでございますな。いや、ういたしまして、まだまだ、御新造様などはお地味なほうで、世間は派手になるばかりでございます。路考茶ろこうちゃだとか、吉弥臙脂きちやえんじとか、それがあなた様、若いお娘だけの流行はやりではございませんので』
『これ、ちと声を静かにしやい。旦那様のお耳にふれると、又御機嫌を損じますから』
『あ、御在宅で。……これはうも』
 あわてて腰を上げながら、勘定書かきつけを出すと、墨江は、
『……一緒に』
 と、低声こごえで断って、そこの水屋障子みずやしょうじをすぐ閉め切った。




 浪人してからは、米一粒の稼ぎもしていない。無為むい、坐食、そんな日がもう五年目になる――
『よく過ごして来られたもの』
 と、平田賛五郎ひらたさんごろうも、われながら不思議に思う。
 しかも、夫婦共にまだ、どこか以前の気位をしていて、そうあかじみた生活に疲れてもいない。
『……だが、ここらがもう、底の底だろう』
 この間から賛五郎は考え初めていた。沈湎ちんめんと腕みしたまま、いつぞやの雪の日からまだ下駄げた穿いて一歩も外へ出ていなかった。
 ――その雪の日であった。
 この江戸へ来てから知己しりあいになった浪人仲間の友達が三、四人打ち連れて来て、
(どうだ、貴公も行かないか。ぜひ一口入れ。吾々が世に浮かび出る千ざいの一ぐうが来たのに、その機会をがすなどという法があるものか。――なあ御新造、そうじゃないか)
 と、いう熱心な勧め方。
 良人の友人達から、そう云われると、墨江は、良人以上、乗り気になって、
(そういう事なら、ぜひ共、主人もお加えくださいませ。とかく良人たくは引っ込み思案じあんで、今日迄にも何遍なんべん、仕官の口をはずして居りますことやら――)
 などと口を極めて云った。
 それ程迄に、妻も云うので、
(行こう、今度は)
 と賛五郎も遂に、同行を約した。
 出発は二月初旬。もう日は迫っている。
 江戸表から立つ仲間は、ざっと十名ぐらいになるだろうとの見込だった。そして、約二ヵ月程、京都の竹林院の道場で稽古けいこはげみ、そして悠々、静養の上で、四月下旬の三十三間堂のきそに立つという予定なのである。
 浪人仲間の一部で、
(世に浮かび出る時が来た)
 と云っているのは、寛永かんえい正徳しょうとく以来、ここ五、六十年間の通し矢は、御三家や各藩士の間でばかり競技が行われて来ていたが、今度は、あまねく天下の隠れたる弓仕ゆみしに、あのれの場所が与えられ、藩士以外の上手が見出される事になったのを歓んでいるのだった。