剣の四君子(けんのよんくんし)




「松坂へ帰ろうか。松坂へ帰ればよい師にもめぐり会えように」
 典膳てんぜんは時々考えこむ。彼も迷い多き青年の二十歳へかかりかけていた。
 郷里伊勢の松坂は武道の府であった。世にふとの御所とよばれた国主の北畠具教とものり卿は、卜伝ぼくでん直系の第一人者であった。その権勢、その流風を慕って、由来、伊勢路の往来には武芸者のすがたも多い。
 神子上みこがみ家は、世々、神宮のおまもりをしている伊勢の神職荒木田家に属す神苑衛士えじの家だったが、典膳がもの心づいた頃は、松坂ざいにひきこもって、母ひとり子ひとりの暮しであった。
 その母に伴われて、初めて武道の師というものにまみえたのは、六ツか七歳ななつぐらいなときだった。
三神流刀槍道床どうしょう
 と、門の柱だったか入口かに懸けてあった雄壮な文字は、よほど幼いあたまにみ入ったものとみえて、眼をとじれば成人したいまでも、その筆法の一点一画まで脳裡に思い出すことができる。
 十三の時、彼は生れて初めて、戦争を見た。織田信長の伊勢攻略にうしおして、精悍せいかんな軍馬が村にも入って来たのである。
 滝川一益とか、明智光秀とか、木下藤吉郎とかいう敵将校の名なども、小さい反抗心にふかくきざみつけられた。わすれもしないこの年は天正四年で、実にこのときに国主北畠具教とものりも討死して終ったのであった。
 ――いくさに出たい。
 と母にせがんだことも覚えている。しかし、彼はその母と共に、伊勢湾から東国へ行く便船に乗って、荷物の間から燃える故郷ふるさとをながめていたのだった。津、松坂などの町々はもちろん伊勢は部落の方まで一円に黒煙くろけむりをあげていた。
 この房州へ移って来たのは、つまりはその戦争が動機であった。上総かずさ夷隅郷いすみごう万喜頼春まきよりはるは里見一族の武将であるが、その家人けにんのうちに小野朴翁ぼくおうという老人がある。
(このお方が、そなたのお祖父じいさまですよ)
 と、母にいわれながら、初めて白髯はくぜんの人の前に坐ったとき、典膳は、何かふしぎなここちがした。
 母の父親、という感じだけでなく、自分の血液が、思いがけないところからわかれ流れて今のわが身というものに育ちかけているすがたを、何か眼で見たような気がしたのである。
 故郷の土から離れて、母方の血の故郷へ帰ったのだ。神子上典膳は、そんなふうな生い立ちを経て、房州の一海辺に、いつか二十歳をかぞえる若者になっていた。
「もう一ぺん、伊勢へ」
 この念はやまなかった。伊勢にはまだ戦争がある気がする。そしておびただしい武芸者の往来もあるような心地がする。
「……いやいや世の中は変ったろう。伊勢へ行っても、今は知るもないし」
 思い直しては、母の孝養に努めた。老いこそすれ、母はなお息災そくさいであった。けれど自分が側を去ったらいかにお淋しかろうぞ、と彼はすぐそれを思う。
「このまます無く、田舎武士でち終ってもいい。母上の余生だにおつつがなく、朝夕のお顔に仕えられるものなら――」
 彼はやさしい子といえよう。一面、理性に富んでもいた。といって青年の多感や志望が低いのでは絶対にない。時今、天正十二年は、本能寺の変後、山崎の合戦後、急転機を、次なる太閤時代に大らかなあかつきを告げていた。しかもこの房州上総かずさ波打際なみうちぎわは、北条氏の領治下に、眠っているような、現状だったのである。


 一日に一度は浜辺に出るのが癖のようになっていた。そしてこんな空想にふける。せめてもの空想だった。もし典膳てんぜんから空想を除いたら彼は青年ではあり得なくなる。
「……帰ろうか」
 磯の岩から腰をあげたときである。うすずく夕陽を浴びて波間をいでくる小舟があった。音を聞くだけでも、いかに腕強い上手な船頭かがわかるように思われたが、やがて岸へ漕ぎ着けて降りて来た者を見ると、船頭ではない、二人とも旅がためした身拵みごしらえの、どこにもすきのないような武士だった。
 典膳を見かけて、若い方の連れが、
「この町に旅籠はたごはないか」
 と、訊く。
 礼儀のない訊ね方に、典膳も簡単に、
「旅籠はないが、寺はある」
 と、教えてやると、また寺の名をたずね、ありがとうともいわずに、先へ行く老武士のあとを追って立去った。
 典膳も同じ方へ歩いていたので、自然、二人の後ろ姿を観察していた。何かしら急に大股にいそいで、その老武士の面を、正面から見たいような衝動にられだした。それほど一方の年ったさむらいの後ろ姿には、いぶかしい力の魅力と重厚な線の美があった。