銭形平次捕物控(ぜにがたへいじとりものひかえ)


「八、身体が暇かい」
 銭形平次は、フラリと来たガラッ八の八五郎をつかまえました。
「有難いことに、あっしが乗出すような気の利いた事件ことは一つもねえ」
「大きな事を言やがれ」
 二人は相変らずの調子で話を始めました。
「いったい何をやらかしゃいいんで、親分」
左内坂さないざかに忍術指南の看板を出した浪人者があるというじゃないか」
「聴きましたよ、成瀬九十郎なるせくじゅうろうとかいって」
「その道場へ、これから入門しようというのだ」
「へエー、親分がね、へエー、忍術の稽古けいこに」
 ガラッ八は滅法キナ臭い顔をして見せます。
「忍術も武芸のうちだというから、教えて悪いことではあるまいが、泰平の世の中に『忍術指南』の看板を出すのは何となく穏やかじゃねエ。それに忍術というものは、甲賀組こうがぐみとか伊賀組いがぐみとかが公儀から預かって、町人や百姓には稽古をさせるものじゃねえと思っているが、――左内坂のは甲賀流でも伊賀流でもなくて、霞流かすみりゅうとかいうんだってね」
「へエー」
「御奉行所でもひどく心配なすって、万一謀反むほんの企てでもあっては一大事だから、中へ入ってさぐるようにという申付けだ」
「へエ――」
「これから市ヶ谷左内坂まで行って、成瀬九十郎の門人になろうというのだよ、お前も付き合ってみちゃどうだ」
「そいつを稽古しておいたら、晦日みそかに借金取りが来たときなんか、恐ろしく調法だろうね、親分」
「馬鹿な事を言やがれ」
 無駄を言いながら二人は市ヶ谷左内坂に向いました。
 ある秋の日の夕景、山の手の街は、もう赤蜻蛉あかとんぼがスイスイと頭の上を飛ぶ時分のことです。
 成瀬九十郎の道場は――いや、道場と名のつくようなものではありませんが、表に出した真新しい看板の「霞流忍術指南」の六文字だけが目立つ程度の、至って貧弱なしもたやでした。
「御免」
 声のでっかいガラッ八が、精一杯の威儀を作っておとなうと、町内中の新漬しんづけの味に響くようなダミ声で、ドーレと来るべきはずの段取りを、どう間違えたか、
「ハイ」
 優しい声がして、格子と中の障子を、たしなみ深く開けたのは、十八九の淋しい娘です。
 神田の次平、五郎八と名乗って、忍術執心しゅうしんのことを申入れると、
「しばらくお待ちを」
 娘は一たん奥へ引込みましたが、やがて改めて二人を案内します。
「神田の次平、五郎八というのか。本来ならば町人に忍術は無用のものだが、まだ一人も弟子がつかないから、大負けに負けて門弟にしてやる。さア、ズーッとこっちへ通るがよい」
 おそろしく口の達者な四十男が、畳をいで、床板だけ敷き直した十畳敷ほどの道場に二人を通しました。
 娘の淋しく美しいに似ず、これはまたなんという馬鹿馬鹿しい忍術の先生でしょう。背は低い方、肉付も極度に節約して骨と皮ばかり、顔はしわだらけのくせに、眼と口だけが人並以上で、わけても爛々らんらんたる眼には、人を茶にしたような、虚無的な光さえ宿っているのです。
「有難うござります、なにぶん宜しくお願い申します」
 平次は用意の束脩そくしゅうを二人分、お盆を借りて差出し、その日は四方八方よもやまの話だけで帰りました。戸口を出るともう、
「親分、変な野郎じゃありませんか」
 ガラッ八の八五郎には、に落ちない事だらけです。
「何が変なんだ」
「天下を一と呑みにするような大きな事ばかり言やがる癖に、人間を見ると、沢庵たくあんになり損ねた干大根ほしだいこんみたいな野郎で――」
「だが、一と癖ありそうだな。俺は馬鹿にして行ったが、逢ってみて考え直したよ」
「へエ――、そんなもんですかね、――もっともあの娘は満更まんざらじゃねえが」
「娘の鑑定めききだけは、大した腕前だな、八」
「それほどでもねえ」
 稽古日は三の日と、八の日。教えることは他愛もありませんが、この成瀬九十郎という人物から、平次は不思議な力と情熱を感じておりました。
 三度目の稽古日、忍術に関するいろいろの口伝くでんや理論を聞いて、小さい課程の幾つかを済ませた後、別室に退いて、娘に茶を入れさせながらの話です。
「少し話して行くがよい。次平は生れながらの忍術使いだ、二三年みっちりやると、うまくなるぞ」
 成瀬九十郎はそんな事を言って、大満悦です。
あっしは、先生?」
 ガラッ八はそばから鼻を出しました。
「五郎八は駄目だ」
「へエ――?」
「生れながらの鈍根どんこんだな、お前は」
「へエー」
 まるっきり型無しです。
「ところで先生」
 平次は静かに切出しました。
「何じゃな、次平」
「近ごろ御府内を騒がしている山脇玄内やまわきげんないとかいう泥棒、あれはやはり忍術の心得があるのでしょうな」