日本名婦伝(にほんめいふでん)


 白い旋風つむじを巻いて「いくさ」がけてくる。――五十年めの大雪だという雪かぜと共に、薩摩さつまと肥後の国境を越えて。
 明治十年の二月だった。
 時の明治政府へ、
具申ぐしん尋問のため」
 と唱うる薩南さつなんの健児たちは、神とも信頼している西郷隆盛さいごうたかもりを擁し、桐野きりの・別府・篠原しのはらなどの郷党の諸将に引率されて、総勢三千四百人を、二大砲隊十六小隊に組織し、
「百難道をさえぎるとも!」
 と、決死の誓の下に、上京の目的を抱いて、すでに鹿児島を立っていたのである。
 が、この熊本には、官の鎮台がある。彼等の通過をゆるすべきかこばむべきか。鎮台の意志は問題なく、
「たとえ陸軍大将であろうと、西郷はすでに閑職の人である。のみならず私兵を組織し、純然たる軍備をもって上京するなど、由々しい国憲の違反だ。正当な下意上達とは認められん」
 というに一致していた。
 また、――箇々の感情としては、
「薩南の健児に血があるというなら、熊本の男児にも鉄石の心胆がある。憂国の赤心は、彼のみのものではない」
 とも云って、各※(二の字点、1-2-22)、悲壮な決意を、鎮台の司令部――熊本城のひとつにあつめていた。
 ――こうした中に、熊本の町は、十八日の黄昏たそがれを落した。人影はおろか、いつもの灯も見えない。ただ暗い雲の吐く粉雪のけむりに全市は霏々ひひおののいていた。


「お支度はできましたか。もうやがて七時に近うございましょう」
 もう数日前から市民はあらかた避難し尽している。この宵、人声の聞えたのは、鎮台将校の官舎となっている士族町だけだった。
「お宅様も、お片づきですか」
「はい。まるで旅立ちのように」
 なごやかな笑い声さえ聞えた。恐いとか、悲しいとか、寒いとか、そんな日頃の観念は誰の頭にもとうになかった。
 今日、鎮台からの達しには――
 婦女子、老幼、病人等ハ可相成アイナルベクハ、近郷ノ縁類ヘ避難サレタシ。唯、ヤムナキ事情ノ者ト、トモニ死ヲイトワザル家族ノミハ、今夕七時迄ニ鎮台内ニ引揚ゲラルベシ
 と、あった。
 鎮台の軍議は、籠城と決定らしい。良人の方針を見とどけないうちはと、将校たちの夫人は、最後まで家庭に踏み止まっていたのである。そしてわずか半日の間に、各※(二の字点、1-2-22)、一切の後かたづけをすますと、
「もう心残りはない。後は、良人と共に」
 と、心のひとつな婦人ばかりが結束して、頭巾ずきん簑笠みのかさに身をつつみ、命令の時間までに、鎮台へ行こうと誘い合せているのだった。
 その中に、鎮台司令官の夫人、谷玖満子たにくまこもいた。
 玖満子は、自分のやしきのことといっては、何も顧みている間もなく、毎日、良人の同僚の家庭を見舞っていたが、今日はなおさら、大きな責任を感じているらしく、
「おや、与倉よくら様の奥様が、まだこの中に、お見えにならないではありませんか」
 と自身で、少し先の門まで、様子を見に行った。
 第十三聯隊長の与倉知実よくらともざね中佐の夫人は、妊娠していて、折も折、臨月に近いからだであった。
田舎いなかへ避難あそばして、おすこやかに、お産をお果しになるのも、御主人への貞節ではございませんか」
 と、玖満子くまこをはじめ、人々はみな切にすすめたけれど、与倉夫人鶴子は、
「だいじょうぶです。武人の子ですから、胎内にいるうちに、大砲の音を聞かせておくのもよいことです。籠城中の良人もまた、いつ戦死なされるか知れませんし、誕生の時、一目でもお見せできたら、父も子どもも、どんなに満足か知れますまい」
 そういってかなかったのである。
 けれど、何といっても身重なので、支度に暇がかかったとみえる。
 ――玖満子が、門前から声をかけると、
「はいただ今、妹に藁沓わらぐつをはかせてもらっておりますから、すぐに参ります」
 と、玄関のあたりで、返辞が聞えた。そして間もなく、
「お待たせいたしました」
 と、妹の幹子みきこに援けられながら、雪の中へ歩いて来た。肩を丸くつつんでいるみのの厚さにも、雪の冷えを胎児に及ぼすまいとする心づかいが見えていた。


 城の近くまで来ると、下馬橋げばのはし濠外ほりそとに、一小隊の兵が迎えに出ていてくれた。
 白鷺しらさぎの群れのように、婦人たちの一隊は、鎮台の山にかくれた。
 城内の一廓には、彼女たち以外の婦人や将士の家族もたくさん引揚げて来ていた。広い床にむしろをしいて雑居していた。
「これからは、お城中が一家族ですね」
「たいへんな大世帯ですこと。どうぞよろしゅうお指図くださいませ」
 何か冗談のようでさえあった。お互いに心を明るくするように努めているのかも知れない。和やかな笑いが急に増した。