桐の花(きりのはな)


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 古い小さい緑玉エメロウドは水晶の函に入れて刺戟の鋭い洋酒やハシツシユの罎のうしろにそつと秘蔵して置くべきものだ。古い一絃琴は仏蘭西わたりのピアノの傍の薄青い陰影のなかにたてかけて、おほかたは静かに眺め入るべきものである。私は短歌をそんな風に考へてゐる。
 さうして真に愛してゐる。

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 私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いてゐるテレビン油のしめりであらねばならぬ。その寂しい湿潤うるほひが私のこころの小さい古宝玉の緑であり一絃琴の瀟洒な啜り泣である。
 私の新しいデリケエトな素朴でソフトな官能の余韻はこの古い本来の哀調の面目を傷けぬほどの弱さに常に顫へて居らねばならぬ。
 而してしみじみと桐の花の哀亮をそへカステラの粉つぽい触感を加へて見たいのである。

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 単なる純情詩の時代は過ぎた。私らはシムプルな情緒そのものを素朴な古人のやうに詠歎することに最早や少からぬ不満足を感ずる。赤子の如く凡てをフレツシユに感ずる心はまた品の高い文明人の渋いアートに醇化されねばならぬ。私は涙を惜しむ。何らの修飾なく声あげて泣く人の悲哀より一木一草の感覚にも静かに涙さしぐむ品格のゆかしさが一段と懐しいではないか。実際、思ふままのこころを挙げてうちつけに掻き口説くよりも、私はじつと握りしめた指さきの微細な触感にやるせない片恋の思をしみじみと通はせたいのである。
 鳴かぬ小鳥のさびしさ……それは私の歌を作るときの唯一無二の気分である。私には鳴いてる小鳥のしらべよりもその小鳥をそそのかして鳴かしめるまでにいたる周囲のなんとなき空気の捉へがたい色やにほひがなつかしいのだ、さらにまだ鳴きいでぬ小鳥鳴きやんだ小鳥の幽かな月光と草木の陰影のなかに、ほのかな遠くの※(「木+解」、第3水準1-86-22)の花の甘い臭に刺戟されてじつと自分の悲哀を凝視めながら、細くて赤い嘴を顫してゐる気分が何に代へても哀ふかく感じられる。私は如何なるものにも風情ある空気の微動が欲しい。そのなかに桐の花の色もちらつかせ、カステラの手さはりも匂はせたいのである。

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 私の歌にも欲するところは気分である、陰影である、なつかしい情調の吐息である。……

(小さい藍色の毛虫が黄色な花粉にまみれて冷めたい亜鉛のベンチに匐つてゐる……)
 私は歌を愛してゐる。さうしてその淡緑色の小さい毛虫のやうにしみじみと私の気分にまみれて、拙いながら真に感じた自分の歌を作つてゆく……

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 五月が過ぎ、六月が来て私らの皮膚に柔軟やはらかなネルのにほひがやや熱く感じられるころとなれば、西洋料理店レストラントの白いテエブルクロスの上にも紫の釣鐘草と苦い珈琲の時季が来る。
 私はこのいつもの詩のやうになつた Essey[#「Essey」はママ] を植物園の長い薄あかりのなかでいまやつと書き了へたところだ。
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たんぽぽの図


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春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかとの草に日の入る夕


銀笛のごともかなしく単調ひとふしに過ぎもゆきにし夢なりしかな

しみじみと物のあはれを知るほどの少女をとめとなりし君とわかれぬ


いやはてに鬱金うこんざくらのかなしみのちりそめぬれば五月さつきはきたる

葉がくれに青きを見るかなしみか花ちりし日のわが思ひ出か


ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日


かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし

君を見てびやうのやなぎ薫るごときむなさわぎをばおぼえそめにき


南風モウパツサンがをみな子のふくらはぎ吹くよきうれひ吹く

南風薔薇さうびゆすれりあるかなく斑猫はんめやう飛びて死ぬる夕ぐれ


凋れゆく高き花の香身にみつ貧しきまちの春の夜の月

寝てきけば春夜しゆんやのむせび泣くごとしスレート屋根に月の光れる


ゆく春のなやみに堪へで
鶯も草にねむれり

たんぽぽに誰がさし置きしすぢほど日に光るなり春の三味線


ゆく水に赤き日のさし水ぐるま春の川瀬かはせにやまずめぐるも

白き犬水に飛び入るうつくしさ鳥鳴く鳥鳴く春の川瀬かはせ

ココアの図


一匙ひとさじのココアのにほひなつかしくおとなふ身とは知らしたまはじ

黒耀の石のぼたんをつまさぐりかたらふひまも物をこそおもへ

薄あかき爪のうるみにひとしづく落ちしミルクもなつかしと見ぬ

寂しき日赤き酒取りさりげなく強ひたまふにぞ涙ながれぬ


あまりりす息もふかげに燃ゆるときふとくちびるはさしあてしかな