桐の花(きりのはな)

 真白いこまかな泡と泡とが、緑に、青に、紅に、薄黄に、紫に、初めは紫陽花、終まひには、小さな宝玉に分解して数限りもなく夏の暑熱と日光とに光る、呟やく、泣く、笑ふ、嘲る……恍惚うつとりと見入つて居ると、コツコツと隣の厚い壁板を向ふで敲く。そこで、俺も泡まみれの手でコツコツと合図をして「奈何どうしたの。」と腰をかがめる。
今日けふは盆の十六日ですねえ。」と気のない疲れた声が投げ出すやうにきこえる。
「さうだ、盆の十六日。」と俺も一寸可笑をかしくなる。
「もうつくづく厭になつちやつた、ああああ……」
 これがこの二月に浅草で友達を殺した男の声かと思ふと、何となく変な、不憫な、いやあな気がする。二月から入監はいつて、まだ一度か二度法廷に引つ張り出されたつきり、まだ刑も極らず、ほつたらかしにされて居るのである。飽き飽きするのも無理もない。
 暫時しばらくだまつて居ると、またコツコツと甘へるやうに背後うしろを敲く。
「何だね。」
「あの睾丸きんたま抓んだら死ぬんでせうか。」
 不意に俺の眼が笑ひ出した。
「そりやあね、ギユツと抓んだら何時いつでも死にます。」と口を寄せて、また物好きな道化心が笑ひ出す。
「だが、一体だれが抓むの誰の睾丸きんたまを。」
あつしが抓むんですがね。」
 猫のやうに頓狂な声がした。
 と、思ひ出すと、取り澄ました俄作りの戯奴ヂヤオカアが一時に真白な顔の造作を破裂さした、はははは、自分でも吃驚びつくりするほどの大きな声を挙げ乍ら、腹を擁えて出窓から畳の上に転げ廻つた、而して又転げ廻つて/\世界中がひつくりかへるやうに笑ひ続けた。
 ははははは……………………
 ははははは……………………
[#改ページ]




 数少きわが歌の中より、選びて僅に四百余首を得たり。わが歌はかの銀笛哀慕調のいにしへより哀傷篇四章の近什にいたるまで、凡ては果敢なき折ふしのありのすさびなれども、今に及びては旧歓なかなかに忘れがたし、ただ輯めて懐かしく、顧みて哀愁さらに深し。
 処々に挿みたる小品六篇のうち、「桐の花とカステラ」「昼の思」の二評論は時折のわが歌に於ける哀れなる心ばえのほどを述べたれども、そはわが今のつきつめたる心には協はず、ただ詩のみ、余情のみ、うはかはのただひとふれのみ。
 わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき。
 わがかなしみを知る人にわれはただわが温情のかぎりを投げかけむかな、囚人 Tonka John は既に傷つきたる心の旅びとなり。
 この集世に出づる日ありとも何にかせむ。慰めがたき巡礼のそのゆく道のはるけさよ。
この心を誰か悲しく弄ばむやんごともなし
やんごともなし
一九一二、初冬
著者


奥付裏カットの図