古句を観る(こくをみる)

「今朝春の小槌こづちを出たり四方よもの人 存義ぞんぎ」という句と全然同じ行き方ではないが、新春そのものを包括して、ある形の下に現したのが、この種の句の特色をなしている。

七くさやそこにありあふ板のきれ    吏全

 七種ななくさなずなをたたく行事は、今でもところによっては行われているのであろうか。こういう行事のあった時代は、それだけ正月のにぎやかさを添えたことと思うが、師走しわす餅搗もちつきの音でさえ、動力機械に圧倒された今日、そういうことを望む方が無理であろう。
 古人の七種の句を通覧すると、多くは薺をたたく拍子が問題になっている。「七種や明ぬにむこのまくらもと」という其角の句も、今日だったらどういう解釈になるかわからぬが、夜の明けないうちから聟の枕許で、わざとトントンやるのが主眼らしく思われる。各人各戸に拍子を取ってやったものとすれば、蒲鉾屋かまぼこや経師屋きょうじやの音から類推することはむずかしそうである。

七草や拍子こたへて竹ばやし    りん

というような閑寂かんじゃくな世界もある。

七種のついでにたゝく鳥の骨    薄月

というような、余興だか、実用だかわからぬこともあったのであろう。幾人も寄ってたたく中には、おのずからたたき馴れた先達せんだつがあって、先ず範を示してこうやれという。その結果は、

七種の手本にも似ぬ拍子かな    車要

ということになって、あらたに笑を催すこともあったらしい。こういういろいろな句によって、その賑かさを想像するより外はないことを考えると、われわれの次の時代には餅搗の趣を解することがだんだん困難になるのも、またやむをえぬ順序になって来る。
 薺を打つ板は元来きまったものがあったのであろうが、大勢おおぜいの手に行渡るほどはないので、そこらにあり合せの板切でたたいている、というのが吏全の句意である。こういう先生は単にいんそなわるだけで、手本に似ぬ拍子をやる仲間だろうと思うが、それがまたかえって一座を賑かにするのであろう。
 物の足らぬがちな家で、薺をたたくにもあり合せの板切ですまして置く、という簡素な趣を詠じたものと解されぬこともない。ただ薺打を賑やかなものとして考えると、及ばずながら板切を取って加わる方が、新春の趣にふさわしいような気もするのである。事実を知らぬ者の想像だから、これも間違っているかも知れない。

君が代をかざれだいだい二万籠    舟泉

 橙は御飾おかざりに用いられるので、歳旦の季題になっている。作者は現実に二万籠という橙を眼に浮べているわけではない。君が代の春を飾るべき多くの橙ということを現すために、極めて漠然たる数字を持出したのである。二万と限ったのも恐らくは調子の関係から来たので、中七字であったら更に他の数詞に替えたかも知れぬ。算術の問題ならば、一籠いくつとして総計どの位になるかというところであるが、「李白一斗詩百篇」や「白髪三千丈」の国でないだけに、大きく見せた二万という言葉も、それほど驚くべき感じを与えないように思う。
 西鶴の『胸算用むねさんよう』に橙のはずれ年があって、一つ四、五分ずつの売買であったため、九年母くねんぼを代用品にしてらちを明けた、という話が出ている。これを二万籠の方に持込めば、また一つ数学の問題がえるわけであるが、それはわれわれの領分ではない。二万籠の橙の量は、常人の想像以上に属する。この数字は文学的形容として、なるべく軽く見なければならぬが、元禄の句としてはやや奇道を行くものというべきであろう。

わか水やよべより井桁いげた越せる音    孚先

 年立つ朝の水はどこでも若水ととなえるが、この井戸はまた格別である。あふれやまぬ水は絶えず井桁を越して外へ落ちる。持越した去年の水は溢れ尽して、真に新なる水ばかりをたたえているような気がする。
 井は水の豊なるよりめでたきはない。井桁をこぼれる水の上に、しずかに元朝の光のゆらぐ様を思えば、自ら爽快の感を禁じ得ぬものがある。

廊に蓬莱ほうらい重きあゆみかな    友静

「廊」は「ワタドノ」あるいは「ホソドノ」とでも読むのであろうか。蓬莱といえば飾ってあるところの句が多いのに、これは運ぶ場合であるのが珍しく思われる。蓬莱を大事にささげて、長い廊下をしずしずと歩く人の姿が眼に浮んで来る。「蓬莱重きあゆみ」というだけで、運ぶ様子を髣髴ほうふつせしめるのは、技巧というよりもむしろ真実の力であろう。

八日
薺粥なずながゆまたたかせけり二日酔    洗古

 七種ななくさの日に飲み過ぎて、宿酲ふつかよい未ださめやらぬ結果、薺粥をもう一度くことを家人に命じた、というのである。七日のものときまっている薺粥を、翌日にまた炊かせたというところに、破格というのも少し大袈裟おおげさであるが、一種の面白味がある。