古句を観る(こくをみる)

 俳諧では湯婆と書いてタンポと読んでいる。この上に更に一字を添えた「湯たんぽ」という言葉が一般に通用しているのは、幸田露伴博士が考証したチギ箱の例のように、一つ言葉を補わなければわかりにくいためかも知れぬ。湯婆と風呂とは目的を異にするが、湯で身体を温める点に変りはない。湯婆の如く釜で脚を温めるという意味から、脚婆という語を造り出したのではあるまいか。湯の字と婆の字とが一句の中にあり、かつ脚を温める作用をも取入れているので、強いて分類すれば湯婆の範囲にでも入るべきかと思う。但これは臆測である。正解があれば何時いつでもそれに従うことにする。

鉄砲の水田になりて里の冬    蘆文

 稲を刈った跡の田が刈田で、それが冬に入れば冬田になるというのが、季題の上の常識になっている。ここにある「水田」は普通にいうスイデンの意味もあるかも知れぬが、同時に稲を刈った跡の田が暫く水をたたえていることを現したものではないかと思う。
 そういう水田に雁鴨その他の鳥が何か求食あさりに下りる。それを目がけてしきりに鉄砲を撃つ。蕭条たる冬の里には日々何事もなく、ただ水田にこだまする鉄砲の音が聞えるのみだというのであろう。われわれも少年の頃、東京郊外の田圃たんぼでしばしばこういう感を味った。「鉄砲の水田になりて」というだけで、直に右のような趣を感じ得るのは、過去の経験が然らしむるのかも知れない。