大和古寺風物誌(やまとこじふうぶつし)

 即ち、太子の大乗の愛は、人間に関する深き観察、煩悩具足の凡夫の在りのままの姿に発し、しかも必ず仏性をみとめてこれを捨てず、すべての人を抱擁し、この和の根本の教として三宝を敬い、そして最後にこれら一切を傾けて護国のためにささげられんとしたのであった。飛鳥の精神は、ただ美しい古仏や寺院にのみあらわれているのではない。それを支える根源には想像を絶した苦闘があったのだ。むしろ現世の地獄より、ひそかに祈念し憧憬どうけいしたところに、諸々の菩薩像が立ちあらわれたのだといってよかろう。大なる悲痛と、それゆえの慈心は、太子の御心から光りのごとく発したのであった。

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 上宮太子の御歌は今日あまり知られていないようであるが、万葉集巻三挽歌ばんかのはじめに、上宮聖徳皇子出遊竹原之井之時見竜田山死人悲傷御作として、次の一首が記載されている。
家に在らば いもかむ 草枕くさまくら 旅にこやせる 旅人たびとあはれ
 竜田山たつたやまの死人をみてふとつぶやいた言葉に、おのずから調べが乗ったような御歌である。ただ「妹が手枕かむ」という現世的情感の表現は、太子においては一見めずらしくも思われようが、家庭生活を史について拝するとき、太子もまた古事記から万葉の諸歌にみらるるような鷹揚ないとなみに終始された方であることが了知されよう。死に面して生ま生ましく生の愉悦をふりかえられたところにあの時代の面影がつよく偲ばれる。またそれ故に、死という厳しい運命について深く思索されたことも察せらるる。そういう悲愍ひびんの思いを更につよくあらわされた御歌、並びにそれにまつわる一篇の物語が日本書紀に載っている。
しな照る 片岡山かたをかやまに いひて こやせる 旅人たびとあはれ 親無おやなしに なれりけめや 剌竹さすたけの きみはやき いひて こやせる 旅人たびとあはれ
 日本書紀によれば「十二月庚午かのえうまついたち、皇太子片岡に遊行いでます。時に飢ゑたるひと道のほとりせり。りて姓名かばねなを問ひたまふ。而してまをさず。皇太子飲食をしものを与へたまふ。即ち衣裳みけしを脱きて飢者に覆ひてのたまはく、安くせよ。則ち歌よみて曰く」とあってこの御歌が出ているのである。推古天皇二十一年の冬十二月のことであった。太子は片岡山においでになった折、道のほとりに飢えた者が臥しているのを御覧になって、親しく姓名を問われたが、答える気力もない。そこで太子は飲食を与え、また自らの衣をぬがれて、これを飢えた者の上に覆い、安く臥せよと申されて、さきの歌をよまれたというのである。太子の慈心を物語る美しい状景であり、またこの御歌も、古事記の諸歌と同じように古樸こぼく典雅にして、しかもあふるるがごとき慈心が憂いの調べとともに流れ出て美しい。「級照」「剌竹」ともに枕詞まくらことばであるが、他は解を要するまでもなかろう。十七条憲法や義疏ぎしょの根底にひそむ精神の発露と申していいであろう。
 なおこの物語のつづきは次のようにしるされている。
辛未かのとひつじ、皇太子、使をまたして飢者を視しむ。使者かへり来て曰く、飢者既にまかりぬ。ここに皇太子おほいこれを悲しみ、則ちりて以て当処そのところほふりをさめしむ。つかつきかたむ。数日之後ひをへて、皇太子近習者つかまつるものを召して、かたりて曰く、先の日、道に臥せる飢者は、其れ凡人ただびとあらじ、必ず真人ひじりならむ。使を遣して視しめたまふ。是にいて、使者還り来て曰く、墓所に到りて視れば、かためうづめるところ動かず。すなはち開きて屍骨かばねを見れば、既にむなしくなりたり。衣物きもの畳みてひつぎの上に置けり。是に於いて、皇太子た使者を返し、其の衣を取らしめ、常のごとたまふ。時の人大にあやしみて曰く、聖の聖を知ること、其れまことなる哉。いよいよかしこまる。」
 飢えたる者に自らの衣を脱いで親しく掛けられ、更にその者の死後、棺の上に畳みおかれた衣を再び平然とちゃくされたという。この一節は後に様々の伝説を生んだようであるが、太子の悲心と生死の境なきがごとき挙措が当時の人々にも異様の感動を与えたことはこの文章からも察せらるるであろう。
 私は法隆寺から夢殿、夢殿から中宮寺へかけて巡拝するたびごとに、この斑鳩の里につて太子の歩まれたことを思い、一木一草すら懐しく、在りし日の面影を慕いつつ佇むのを常とする。春、法隆寺の土塀に沿うて夢殿にまいり、ついで庭つづきともいえる中宮寺を訪れると、その直ぐ後はもう一面の畑地である。法輪寺と法起寺の塔が眼前にみえる。陽炎かげろうのたちのぼる野辺にして、雲雀ひばりの空たかくさえずるのをきいたこともあった。嘗つてここに飛鳥びとが様々の生活を営んでいたであろうが、彼らの風貌や言葉やよそおいはどのようなものであったろうか。